2024/11/01

猫が秋にも春にも飛び跳ねた日は彼岸だった

 


猫が秋にも春にも飛び跳ねた日は彼岸だった。

驚いて飛び跳ねて空中で回転した後に地上に足をつけるやいなや身を屈めあらぬ方向を睨んで、喉から絞り出るウーウー低い声が隠さぬほど怯えている。


というこの二行からはじまる文章を書いている2024年7月、もうその人は亡くなって四ヶ月近くが経っていたのを私は知らなかった。猫が飛び跳ねたのは、2023年秋と2024年春の彼岸だったと思う。

今年の夏も暑くて外を散歩するような時間をもたなかったけれど、その代わりというか、暑くなる前にはお決まりだった散歩コースの、その道を歩く感じこそをしょっちゅう我が部屋で寝しなに思い出した。その道は、道というか河岸というのか、川辺というのか、戦後に桜を植樹した護岸の土手で、川沿いに歩いていけば明治時代以降に個人(多くは商人)がそれぞれに作ったとされる雁木のうがつような穴と階段がときどき川側に現れる。80年前、明治につくられた雁木に腰掛けた人は焼け爛れた無数の人間が浮かぶ川を見た。

土手幅の狭いところは酔っ払って歩いたら足を滑らせて川に落ちそうだといつも思うけど、それは私の運動神経が人並み以下だからかもしれなくて、みんなは自然道をスイスイいく足捌きに気分軽快なのかも。幅の広いところは、道というより公園になっている。


よっぱらって足を滑らせて落ちるにちがいないほうの土手で、わたしは映像を撮影している。

わたしよりも年をとった日本語の通じる男のダンサーに、「とにかくこの空間を味わいながら前に進んでください」というと、彼は戸惑いながらも試みる。

わたしはその時、カメラをどこに置くべきなのよ?

手持ちじゃないと何も撮影できないな、と思う。思うのだけれど、すぐさま手持ちでダンサーの動きを追いながら水にも落ちずに撮影できる技術はわたしにはないから、カメラマンを雇うしかないだろうと気づく……いや、ダンサーを東京から呼ぶだけでもお金がかかるから、やっぱり自分で撮影だろう。だとしたら、いっそ映像ではなく写真にして、いやいや写真もいらんわ、ダンサーの身体にピンマイクを仕込んで土手のあちこちにもフィールドレコーディング用のLOMのマイクを仕込んで音を収録しよう、上下する息と衣擦れと草の軋む音だ。それならわたしの体力でもなんとかなるが、なにしろすべては夏が終わってからだった。

夏の間は外では何もできるわけがない。


私があるひとりの男のダンサーが空間に触れ続けるように木の枝や生い茂る草のトンネルでもある土手を身体を使って動いていくのを夢想しているとき、その人はもう亡くなっていたのだった。と言うと誤解を与えてしまうその人はダンサーではないのだけれど。ダンサーとは別人なんだけれど。

その人は、20代の終わりころに出会った「知人」で、幾度か言葉も交わしたし、SNSでは毎日彼のあげる写真を見ていた。彼は写真家を名乗ってはいないけれど常に写真と共にあって、彼の世界には本と映画とおいしそうなジュースもよく登場する。私は彼の写真も本も映画もジュースももれなくすき。

友人でもなければ親しいということもない。

九月、ひさしぶりにInstagramを見てみたら、いつも楽しみにしていたその人の写真が三月から更新されていないことに気づいた。

Instagramを彼はやめたのかな、とTwitterを見てもやはり更新されていなかった。

そこで彼の名前をTwitterで検索して、初めて私はその人の死を知った。

Twitterを詳しくみていくと、春に「お別れの会」が開かれていた。誰かがアップした「お別れの会」の写真には、その人の愛用品が並べられた机があり、そして写真たてに入ったその人の写真もあった。


それで、私はすごく動揺している。その写真を見てからというもの、友達でさえないその人の死があまりに生々しくて、素直に言えば悲しくて寂しくて、そうだ、こういうお顔だった、と全身の隅々から記憶が立ち上がってから以降、私はずっと静かに動揺している。

あれ以来、毎日いちにちのどこかで、彼が亡くなったんだ、ということがあまりにすぐ近くに頻繁に出現して気持ちが一瞬白く停止する。

その人の死はあまりにもよくわからない。

その人の死は、やっぱりゼロになったとは思えなくて、まだいるとしか思えない。まだ生きているとしか思えない。

きっと、彼はずっとインターネットのなかにいたから、体に触れたことがないから、もともと存在が曖昧だった、というか、その顔貌は私の中に人知れずに私さえも知らない形で居たのに、写真たての顔がぎゅいんと立体的に彼の顔をまるで脳が正しく彼を記憶していたかのように心の中に仕上げてしまった。

触れ合わない人の形がこのように揺れ動いて変貌して強くなることに私は驚いている。

その人は、世間でよく聞くように「私が覚えている間は生きている」というのともちがっている。生と死の境は以前の私が思っていたようなのじゃなくて今も生きている。


涼しくなると、日本で活動するダンサーが「とにかくこの空間を味わいながら前に進んでください」というだけの呼びかけに反応してくれるかどうか不安になってきた。

最後にダンサーと関わったのはオスロやロサンゼルスで、私はあのとき日本のダンサーが恋しかった。物語ではなく空間や時間に触れるひとの身体と動きが恋しくなった。

「キミのはプリミティブな関心だけれど、いかなる問題も提起していないね」と言われるとき、でも、命が世界を味わいつくしていますよ。リアルですよ。しかもあなたは飛び跳ねもしないのに。と私は言う。声に出してかどうかはともかく。


猫は、今年の九月の彼岸にはもう飛ばなかったなぁ。

我が家の歴代犬猫たちが新入りにゃんコに挨拶にきてくれたとおもったりできたのも、2回の彼岸で終わってしまった。


2021/08/10

8/8の日記:土地の熱





台風が来る。

台風は来てみるまで大きさや被害の程がイマイチはっきりしない。だから、台風には備える。

台風で被害を受けたことがない人にはピンとこず、あまり備えもしないだろうと思う。

きのうまでこの辺はおそろしい暑さだった。

二階ってこんなに暑かったっけ?と驚いている。

三十年近く一軒家から離れていた。そのうちの結構な時間を一階で生活した。

わたしが離れている間もこの家はあったのだけれど、夏を広島で過ごすのはいつ以来だろう?お盆に数日帰ってくることならあったけれど、ひと夏の始まりから終わりまでを過ごすのは26歳で半年ほど戻っていた時ぶりだ。その26歳も、もう一度出ていくための準備期間としての心づもりがあったので、ここで生活しているという感覚、ちがうな、どちらかというと意志はとても薄かった。

東京に戻りたいのかヨーロッパに行くのか、決めかねていた。結局は、冬のヨーロッパの三ヶ月滞在であまりにも過酷な喘息が出てしまって、自分には寒い国での生活は厳しいだろうと二度目の上京を選ぶことになる。咳は咳のことしか考えさせなくさせるだけでなく、息をさせないことで、強烈な生命への危機を抱かせるのだとおもう、とにかくつらい、常時眠らずに腹筋している感じだし。

いま、広島にいる感覚が自分にあるかというと、やっぱり怪しい。東京や北九州にいる三十年だってその街に暮らしているという実感なんてなかった。長期の旅にでた時だけ、わたしは土地に馴染んでいる感覚をはっきりと持つ、ようはいい加減なのかもしれない。出ていく・別れると決まっているものとの関係に馴染む。

大袈裟ではなく実態としてそうなのだが、それでも、わたしは徐々にこの家には居る感覚をもちはじめている。わたしが育った家でなく、育ったエリアでもない、あたらしい場所だ。

二階の西の廊下や南東の部屋は、真夏日になると壁も柱も床も自然発火しそうに熱い。午後に廊下を歩くたび「自然発火」とおもう。「自然発火」とすぐに思うようになったのは、近年のカリフォルニアやオーストラリアあたりの森林火災からきているのだろうとおもう。2018年の夏に、LAにいるときにまさにすぐ近くの丘が燃えた。燃えたあとの丘は黒くて煤けていて、煙の匂いがずっと残っていた。そんなことが起こるのも当然と思わせるくらいに、日中のLAの日差しは恐怖を感じる強さなのだけれど、それでも人間はエアコンの効いた室内にいるので、暑さがどこか遠い。暑さが外には充満していることを誰しも知っていて、けれど逃れ得るというか、コントロールできるものとして人は暮らしているように見える。事実としては、わたしの知っているなかにも冷房のない部屋で暮らす人もいたのだが、その事実をもってしても、あの土地に「冷房」がなければ、人は暮らしたりしないとおもう。最初から冷房ありきで歴史が始まったのではないかとおもうほどだ。真実はしらない。

なんにせよ、熱は蓄積されれば火になる。

ずっと同じ空間に溜まっていたのだから。

午後に廊下へでると、まるで瞬時に肌が空気に焼かれるようだ。

そして原爆だ。

広島の家の廊下だから。毎日、中国新聞で原爆関連の記事を読むから。散歩に出れてば、あちこちにひっそりと小さな、ときには立派な慰霊碑があるから。大きな、公の、市の慰霊碑では間に合うはずのない身近な特定の知人たちが死んだのだ。

その命の凄まじい終わりを目撃した人がいたのだ、どこの近所にも。


元気なところしか見たことのない家族が八月に入ってひどく体調を崩し、あれよあれよと食べられなくなった。そんなことが起こるなんて、やっぱりこうして目の当たりにするまでは現実的ではなかった。

命は体の内外をどのように行き来しているものやら不思議でならないけれど、身体はいつでも激変の機会にさらされている。










 

2020/04/19

居心地のよい部屋



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4月19日(日曜日)

 外に出ると、人々が散歩を楽しんでいる。
 子供が走りまわり、大人たちがジョギングをし、カップルが手をつないで歩いてくるのとすれちがう、その数どれも数件。前は一件だって数えたりしなかった。小さなカフェには客が入っていて、界隈で有名な洋菓子屋は入店をを待つひとで路上に行列ができている。
 空は惚れ惚れするようないい天気で、わたしの住む町はどう考えたって、わたしがみてきた中で一番のしあわせそうな空気を醸し出している。
 目にみえないウィルスは、住宅地になんかやってこない気がする。
 わたしはもう一ヶ月以上、電車にのっていない。
 収録もなくなり、家でできる仕事をするのみなので、この町のなかにずっといる。
 いくつもの店には、当然だが、張り紙があって閉じている。
 わたしは、私達がしあわせなのかどうかわからない。ふしあわせなのかも。
 私達のことはよくわからないが、わたしにとっては、「電車に乗らない」ことと「それに、いつもお世話になっている治療が受けられない」以外はあまり気分としてつらいところが、まだない。
 去年の秋から仕事づくめだったから、このゆるゆるとした生活のどこが悪いのかまだわからない、けれど、ここから先の収入が減っていく不安はあるし、それになによりも、わたしの周りには「アーティストや俳優や音楽家や映画関係者」が多い。つまり、人々は語るにせよ黙するにせよ、窮地に立たさせているし、その窮地が終わる気配はない。なによりも窮地というのは経済的な苦痛のようだけれど、楽しみの無い時間を生きるといういたたまれなさである。
 世の中の仕組みは大きくも小さくも変わるのだろう。
 それそれの国民が放置してきた、それぞれの社会の都合の悪いことが爆発的に露呈している。それぞれの国民のなかには完全には加われない、その同じ社会で暮らす国籍の異なる(あるいは不透明な)人は、ますます宙に浮いているし、そんなことを言ったら、大多数の正規の国民が努力をし尽くしたと疲れ果てているにもかかわらず、これまで変化を起こせなかった国も少なく無いだろう。そのなかで、変わっていく。灰になるように。 
 だが、わたしは映画は映画館でしかみたくないわ、とここのところ毎日つくづく思うみたいに、必死につないでゆく仕組みもあるだろう、願っている。

 部屋を出て散歩をしていると、ひとつのイメージがついてまわる。
 保坂和志さんの『読書実録』にでてくるSFの話で、人間からみると不幸な結末として本来の形を失ってしまったモノ言えぬ生命体が、生き生きと互いに交歓するシーンだ。人間たちにはその歓びは見えず感じられず、あのアメーバのようになってしまうことがどういうことなのかがわからずに怯えている。
 閉じたわたしの部屋は、空っぽではなく、なにかかつてのインスピレーションを失っているけれど、同時にとてつもなく居心地がよい。その部屋を残して近所に散歩にでるとき、わたしはなぜかしら、あのSFのなかでアメーバみたいになった生命体としての会話を感じている。
 
 この散歩は、まるで原爆の光をうつくしいと感じた人のような話なのだろうか、違うのだろうか、比べたら不謹慎なのだろうか、こんなふうな感じの微細さすべてが今から灰になるのだろうか、部屋に戻って自画像を描いたのだった。








2020/04/04

2017/07/11

2017/06/12

映画『セールスマン』



上7行目:罰人 → 罪人

下5行目:込えて → 超えて

2017/06/10

20170609



下3行目:抗抗して→拮抗して


2017/05/29

先月あたりに『10:04』という小説を読んでいた。
ストーリーがはっきりと無いことと事実なのか物語なのか曖昧な点が、絶賛もされ、酷評もされたという触れ込みだったけれど、世界にはこの程度の物語性の弱い小説はいくらでもあると思う。
むしろ、丁寧に「世界観が変わる瞬間」を、森の小道に石を置くようにして進むものだから、この小説家が十分に予定を練って書いていることを容易に伺わせて、「ストーリーがはっきりと無いことと事実なのか物語なのか曖昧な点」というのは大した問題ではなかった、というか、やっぱりちょっと残念だった。

作品を作るときに、終わりを知らないルートをどのくらいギリギリまで進んでいけるだろう?数年前まで、そのことばかりを考えていた気がする。

ここ数日、もう何度目かわからない作り直しをしている『Emblem』に集中していた。
いちど座るとあっと言う間に時間がたってしまって、スーパーに行ったり料理をするのもいやで、食欲もわかずにえんえんと作業していた。
そういう風に身体を使ってはいけないと思うんだけれど。
でも、たぶんこれで迷っていた箇所を打ち止めにできる気がする。

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やっとマスクを外して歩くことができる日が増えてきた。
夜道を歩くとき、春の甘い匂いがあちこちの草花から漂ってくる。
部屋を抜けてゆく風が気持ちよくて、そのまま眠れたらどんなにいいだろう。

一方に、造形を形作られていくものがあり、一方にじっくり追っている不可視の、複数のこころがある。終わりの知らないこの制作過程に、ますます没頭している。

とても不思議なことのようにも思うのだけれど、なぜかわたしは最近、しあわせを感じてる。
肌が粟立つように刻一刻の外界を感じながら、あなたにオープンであるわたしが同時にきれいに生きろと私を支えている、こうやって世界観が変わってきたなぁ、これまでも、こんなふうだったんだ、と作る間中、何者かに語りかけている。







2017/05/23

やはり、毎日書くと決めたら毎日書かないと、書かない。
それが咳の記録にしかならないとしても、とりあえずは書くか。
人知れず書き溜めては書き直し、何かをここで練ってみようと思う。
毎日、自分の体のなかでは練られている連なりを感じるのに、それが書かれないことで捕まえにくくなってしまっている。

かれこれ2週間ほど、もう一生この咳は止まらないのかもという感じで、夜間の咳とつきあっていた。
今も、薬を飲み忘れたら怪しいので、今年はもうずっとこんな感じで夏までいくのかもしれない。願わくば、一年のうちにいっときでも完全に咳が止まるシーズンがくることを気長に待つとしよう。

前回、少し触れたblanClassで見たものの続きを書こうと思っていたのに、その直後から咳が再び悪化して、それどころではなくなってしまった。
考えてみれば、少しでも自律神経を整えて環境の変化に体が反応しないようにと、ジムでウォーキングを始めたことと、今年の黄砂の始まりが重なったらしく、ジムにいくたびに咳も悪化してしまったようだ。毎日、歩き出して5分もしないうちに喉が痛くなるのでおかしいとは思い始めていた。そうすると、深夜に咳がとまらなかった。
歩くのは爽快で気に入っていたし、毎日の同じ時間に集まる人との「暗黙のトレーニング機器の順番こ意識」をシェアしている感も生まれつつあり、日々の新しい習慣として面白くなりかけていたのに、医者にストレッチ以外は禁止を通達されてしまった、残念だ。
blanClassでの時間を、今日は書くことができない。
意識が遠のいているというより、毎日のなかで思いだす時間も途切れずにあるのだけれど、その分、書くことができなくなりつつあるんだろう。
あの後、本を二冊読み進め、そのうちの一冊はどうも読了にはいたらなさそうだ。
映画は見ていないし、ライブパフォーマンスは二軒キャンセルしたし、行こうとおもっていた展覧会をいくつか行けなかった。
自分のクリエイションとしての、でもあまりおもしろくはない部分の、つまりバイトでも雇った方が良さそうな仕事が続いており、それからの現実逃避でもあるのか、私にとってのドローイング的な、つまり発表することのないだろう作業をいくつもした。

咳は、ある漢方を1周間ほど処方されていた。
強い薬だから今夜を最後にして、明日からは継続して服用できる別の漢方薬に変えましょうという方針になったその夜、最後の一包を服用した数時間後に鼻血がつーっと出て、ピタリと(とりあえずは。でも激変として。)咳が止まった。
鼻血は人生で二回目かも。
一回目は、高校生くらいのころに高熱をだした深夜に、突然だらだらと止まらなくなったことがある。鼻血が出る感じは、鼻水が出る感じよりもずっと「だらだら」している。






2017/05/07

今年はなるべく毎日ただの日記のようにblogを書こうと思っていたのに、気がつけば5月だ。体に無理な日程は組まないで甘やかすように暮らしているのだが、それでも日々はあっちゅうま。

ついこの間までの、2016年から2017年はじめの冬に珍しく2度も酷い風邪をひき、その置き土産で喘息が勃発して4月前半は横になって眠ることができなかった。横になると、喉からチカチカとした咳が沸き上り、全身を波打っていく。
咳が始まると、それが続くのが数時間のことなのか、数週間のことなのか、数ヶ月のことなのか、未だに読めない。
終わってしまえば「今年の咳の期間」のようにして、まとまった塊の時間が私のなかに位置するけれど、終わるまでは、文字通りの暗中模索、ゴール不明の瞬間のつらなりだ。
というか、出口を探し出すべく、いや、むしろ作るべく、暗い土の中に穴を掘り続けているようなものが「咳が終わるまで」にはある。

と、いう、そういうことを私はもうずっと作品にしようとしているようなのだが、こんなものを冷静に考えてしまうと、ハテ、なぜそれを作品にするのか?とたちどまる。

いま、「作品」と書いたけれど、どうもここのところ、「作品」という言葉がしっくりこなくなってきた。アーティストが「作品」という言葉を警戒するのは珍しい話ではない。だから、わたしはわたしの出会ってきた人々の中にも居た、「アーティスト」や「作品」といった言い方を自分に与えることを強く拒否する姿勢を見てきたし、そのたびに、まぁまぁそれはわからぬでもないが、わたしには(それこそ)しっくりともピンともこない、別の切実さなのだとして、「アーティスト」や「作品」という言葉に大きな期待も拒否もしない感じを決め込んで使ってきた。
では、じゃあ、今のわたしがふと感じはじめた「作品」という言葉のしっくりこなさ加減が、あの彼らと同じように切実な強い態度かというと、そうでもない。
年をとったのかもしれないが、わたしの態度はどんどん弱くなっている。

ときどきネットのニュースを見ていると、いつの間にか表舞台から消えていた有名人が復活したとか、復活しないが別の人生を歩んでいるという、なんとも内輪感覚に溢れた記事を目にする。
最近、そういう記事を読むときに、私は自分のここ数年を許可されているような、もわっとしたユルい気持ちが生まれることに慣れ始めている。
それはつまり、追われるようにして作品を発表していた時期からここ数年への変化は、まずは生きているということの優先への変化だ、とわたしが認識し始めている。
ということなのかな。
発表の停止が「一時的な休憩」であるにせよ、「枝分かれして始まった別の道行き」であるにせよ、「撤退」であるにせよ、どうでもいい、生きていて、なんだか考えたり作ったりは止まってはいない。考えたり作ったりが最終的な形になるとき、高揚よりも寂しさが鮮明になりつつあるから、「作品」というのが鬱陶しくなっているのかもしれない。

そんなものは、かつては受け入れ難い感性だった。
こんなふうに、かつてとして、区切ってみることもできる。

そのように、時間は区切られながら、心身に巣食う。
それはそうだ。
でも、同時にやはり、絶対に区切られようがないのが命のカウントダウンだ。

今日、blanClassで、岸井大輔さんの戯曲を複数の演劇人や美術家が扱うという「アラカルト」を見てきた。
戯曲として書かれたテキストは、指示のようでもあるし、エッセイのようでもある。
それを、戯曲として読んだ人と、ただの言葉、文字として読んだ人とがいた。
前者には概ねオチがあり、後者には概ねオチらしきものがない。
一応、念のためというやつで日本人らしく書いておくならば、「オチは、いいとか悪いとかではなくって」。




2017/01/15

眠れなかった。
すばらしい小説を読んだし、作っている作品ふたつがずっと頭のなかでぐるぐるして、私は眠れない。眠れないと、また体調を崩すかもしれないし、だから朝8時くらいになったら眠るんだろう。今は7時になっていない。

わたしが『竹ザル』と呼んでいる作品と、『Emblem』と呼んでいる作品はどちらも2013年の横浜の作品を作っているころにアイデアがはじまった。このふたつは、というか『移民する本』が『竹ザル』の大元ではあるが、『移民する本』は、この2013年のアイデアの骨の部分しか使えていない。
骨の部分だけに殺ぎ落とさなければ、もうにっちもさっちもいかないような、そういう時期だった。生活を変えていった。

昨晩、ほんとうは出かけるはずで、シャワーも浴びて化粧もして駅に向かって歩いていたのに、やはりどんどん気が向かなくなってしまって、喫茶店で小説を読んだ。出かければ、人々やアートに出会えただろう。なのに、どうにも人に会うよりも作っていたいほうがどんどんどんどん大きくなって、出かけるのをキャンセルしてしまう、それがもう随分と長いこと続いている。

少し前に、将棋の世界で人工知能を使った疑いをかけられた人がいたが、あの時に「それはおかしな感じだ」と思った。かけられた嫌疑の回答には興味がなく、
ただ、どう考えても、将棋のようなものを人工知能を使って勝ちにいく理由はよくわらかない。将棋は、端から見ている限りにおいて、文章を書くだとか絵を描くだとかの際に、ずっと鳴り響いて側の空気もろともわたしを支配していく思考の流れ、そのものに乗っている時間に見える。思考といっていいのかわからないけれど、なにか、そういうもののなかで広がっている喜びが、毎日毎日毎日、書かせたり描かせたりする、おもしろくって+ぐいぐいしてて、みたいな。
人工知能にその喜びの部分を任せたら、いったいでは何をすることになるんだろう?
将棋のひとたちは、勝っても派手に喜ばない。それが、ちょうど同じ時期に話題になっていたカープの優勝に沸く選手や地元民の姿と違っていて、わたしは将棋と野球を珍しく追ってみていた。 やがて、アイドルの解散問題でファンたちが動きはじめ、トランプが勝ち、アイドルはファンの購買運動や署名的な新聞広告活動と共に解散を迎え、昨日になってスノーデンの恩赦を求めて(強烈に)多くの人々が署名したというニュースが流れてきた。
人々が動かされ、動き、わななき、その「人々」との距離が様々に変わっていく「ある人」のなかには、あの「ずっと鳴り響いて側の空気もろともわたしを支配していく思考の流れ」が、大衆とは無関係にある。
「無関係」だが、それに支配された人もまた、大衆と常に距離を計りあっている。

そういったことが、わたしの作っている作品にははじまりにあった。
そして、これは「骨」だけでは作れようもないので、根拠や理由や理屈や道理の通った作り方から、あの疲れ果てる混沌とした作り方に戻るしかないのだ。
時間がかかっている。
いらいらするのと脳内で作品がふくらむのとで、眠れない日が多い。







2017/01/04

鷺にまつわる雑なことがら

実家の二階の自分の部屋の出窓的なところに座っていると、下には両親の庭、正面遠方一面に広島市街地とそれをわずかにかぶせるように左手に山が見渡せる。もう少し手前に目をやると、近所で一件だけ残っていた田んぼの脇道からこちらに登ってくる人が時々見える。今は、もうここに水が張られることはない。
『この世界の片隅に』というアニメを年末に観た時に、サギが印象的に描かれているのだが、わたしにとっては「印象的に」というよりも「馴染みの感覚」に近かった。
でも、それが個人的な由来のある感覚なのか、映画の持つ力によるものなのかは、観た時にはよくわからなかった。

正月の二日に、ひとりで比治山にある広島市現代美術館に行って『世界が妙だ! 立石大河亞+横山裕一の漫画と絵画』を観た。
立石大河亞という作家についてはまったく知らず、横山裕一氏の作品目当てに出かけたら、とてもとてもよかった、「すっげーいい正月!」と唸ってもいいと思ってる。
特にやはり横山裕一さんの、アクリルやマーカーをつかって紙に描かれた一見シルクスクリーンのようにも見える小品や、いくつもの漫画の生原稿、そして原稿を取り込んでアニメーションにした映像が、持って帰りたいくらいだ。
立石大河亞氏の作品は、少し前の時代の息遣いとともにナンセンスギャグが炸裂していて、おもわず静かな美術館のなかで声をあげて笑ってしまう。だが、ものの見方が定まっているかのような、あるいは手品やパレードといった円環のある"仕立て"を思い出させる立石氏の作品よりも、横山裕一さんの運動沸き起こる、言語と戦い抜いている世界がわたしにはたまらない。

このお二人を並べてたっぷりと観れたのはよかった。
なんだか最近、東京の美術館で流行っている「誰にでも理解できるように丁寧な導入と解説」が無いのも新鮮だったのかもしれない。だが、図録はよくなかった。

この広島市現代美術館は、比治山下という路面電車の電停で降りると川を背に山を登っていった先にある。
私の通った中学と高校からは、バスに少し乗って路面電車に乗り換えて比治山下まで行って山を登るのだが、当時はまずは川べりに降りて行くことが多かったかもしれない。
その川べりに降りていく階段がすきだった。
あれは雁木というのだと、この正月に『ブラタモリ』の広島編を見て知った。ちなみにこの日まで『ブラタモリ』は『プラタモリ』だと思っていた、中身をよく知らなかったのでプラモデルな気分のタモリの番組的なイメージだったのに、テレビをよく見てみると『ブ』と書いてあって、まぁそうだよな。
『ブラタモリ』の広島編は、たまたま自分に縁のある場所がいくつか出てきて割とじっくり楽しんだ。わたしが8歳から19歳までを過ごした仁保の黄金山が出て、そのあとに、現在の両親の家がある方向に向かって船で川をタモリが行くが、その途中に「鷺島」と呼ばれているらしい中洲が紹介される。
それを見て、母が「ああだから、この近くによく鷺が来るんだね、あそこの田んぼによく来ていた」と言った。もしかしたら、方言で言ったかもしれないけれど、よく覚えていない。
わたしが、高校をサボって比治山下で路面電車を降りて雁木を降りて川べりに立つときにも鷺をよく見た。たぶん田んぼでも見た。
『この世界の片隅に』を観た時、わたしは鷺に高校時代の気分を思い出した気がする。
朝だか昼だかに、学校の前をバスで通過して路面電車に乗って川を眺めながら弁当を食べて美術館に行って、学校が終わるまでに高校に行く。
ある日、5時間目が始まる前に教室にすべりこんだら、友人が「あんた、何しに来たんね?」と笑っている、なぜなら、その日の5.6時間目は体育で、体育こそ私が心の底から憎んでやる気の無い時間であることはみんな知っていることだった、もちろん私だって行きたくなんかなかったが、完全に休むと自宅に連絡されかねないわけだから、その日はサボりたいなら体育に出るしかなかったのだ。

二階の出窓的なところに座って太陽をぼけーと浴びていると、窓のそばまで伸びたバラの枝にメジロがとまった。父が、ここ数年ほど庭でスズメを餌付けしており、朝夕にスズメが姦しくやってくる。そして、たまに大きな鳥、たとえばヒヨが来ると、父は追っ払おうとする。鷺はまだ来たことはないかもしれない。
知らないけれど。







2016/12/14

Starman

朝の早い時間は、色を使う作業をする。
最近は、Pablo casals を聴いていることが多い。
それから、週の何日かは家を出て映像編集に行く。
歩きながら、ボウイのStarman を聴いている。

子供のころ、路上で嫌なことがよくあった。
その多くのシーンのなかでは、泣いても叫んでも誰も助けにこなかった。
不思議だと思っていた。
道を一本でも違えれば人がいて、道なりに家々があって、その中にはきっと誰かが住んでいる。けれど、誰も出てこない。
まるで、わたしの存在が見えているのは空から私を見下ろす嫌なものだけで、そいつがどこにいってもわたしを発見するのだろうか、それ以外の人にわたしは居ないみたいだ、と叫びながら、頭が冷えていく。
あとからその視線が蘇るたびに、狂いそうな辱めを感じる。

昨夜から、ネットに接続すれば、アレッポの人々の「最後のメッセージ」が流れていた。
わたしは、彼らを、まるで天からミニチュアを見下ろすもののようにしてつまみ出してあげたいのに、ただバスに乗って音楽を聴いている。
声が見えているのに、わたしはつまみ出してあげられない。
あるいは、つまみ出さない。
わたしがつまみださなかった、「だから」というだけでは無いにしたって、彼らは本当に死んでしまったのだろうか。




2016/09/24

7月に、横浜のblanClassで公開制作をやった。
大きな作品のごくごく小さな一部分を探って作って、最終日に見せたのはそのなかでもエンターテイメントな要素のあるパートにすぎない。
目の前にはいつもマチコさんがいて、「美雪さんの質問は自分のことがわかるからやだー」と言っている。わたしは「なぜ?」しか重ねていないのに。

私は決まりごとを練習する稽古はこっぱずかしくて苦手で、ルートを決めるためのうだうだしたことを稽古といっている風がある。
だから、一応の「本番」まではウジウジしてて、でも「本番」になれば驚くほど解放されていて、私でもない誰かが語っている。
あの人は誰なのかわからないが、すごく完全な自由を謳歌していて、あの時間だけが本当に生きている感触がするのにもかかわらず、あれは「私」という実感が訪れない。
何年このようなことをやっていても、いまだに、はるか彼方から他には無い自由を弾いている女を見ている。

その一方で、この10日ばかりはひきこもって「Emblem」のプロットタイプを追い込んでいる。
ひたすらひたすら黙々と作業したり眠ったりしていて、誰にも会いたくないし誰とも話すことなんかないし、どこにも自由がなくてただひたすら「固まっていく」。のにもかかわらず、この地味で静かな何も語らない、あるいは透き通って透き通って消えていく私が「私」なのですと、体の地面からふつふつと支えくるものがある。

世界中の目や手や唇から隠れてしまいたい。
あなたのしあわせにもふしあわせにも関わっていない、
暴力の無い透き通る行為が描くことのなかから立ち上がってくる。
けれども、やはりこれが終われば、またあの誰ともしれない女が立って語っているのを見に行きたい。

2016/06/01

最後にオバマがやってきて...


5月は、次から次へと人に会っていた。
数年前までは、しょっちゅうミーティングをしては自分のプロジェクトを動かしていたはずなのに、今やたまにこうして「人と会うのが多い」日々があるだけで、けっこう体にくる。
からだがついていかなくなると、顔がむくむのも最近の変化というか、鍼灸の先生に言ったらきっと「あ、老化ですね」と即答されるのだろう。
先生は、「鍼灸は老化を遅くすることがコンセプトですから!」とすてきなことも言うが、"コンセプトということは..."と考え始める自分が残念ですね。

月初めにザグレブ出身、ベルリン在住のアートライターに会った。初対面だった。
次から次へとお互いの関心が繋がって語り合えるという稀有な経験をした夜だった。
お決まりの「どこの出身?」という質問に、「知らないかもしれないけど広島」と言うわたしに、「だれでも知ってるよ、ヒロシマは」「いやいや、世界には直近の問題がいくつもあるからね」「フクシマ?」「あなたの国だって複雑でしょう?」... と言う流れで、広島で私が受けた平和教育の話になった。
わたしが通っていたのは私立の学校だったから、わりと自由に教育プログラムを作ることができた(まだそういう時代だった:と言わねばならないのだろうと想像するけれど)のだと思う。社会科の先生の中には、在日韓国人の先生もいて、そういうことも影響していたのか、どの先生に教わったか記憶は定かではないものの「日本がアジアでおこなってきたこと」も教育された。虐殺や人体実験や差別の類である。
その一方で、毎年、被爆者の生々しい経験を聞くという授業が必ずあり、映画や本をみなければならず、時には取材してレポートを作るようなこともあった。
そして、この平和教育に一貫して流れているのが「原爆はアメリカ固有の罪ではない。戦争は人間の罪であり、どの国であっても起こりえたこと」という視点である。
わたしもこれに異論はない。
むしろ、そう語ることで、奇妙なことだけれど、加害者でもあり被害者でもある歴史に引き裂かれることから救われてきた一面があり、そしてだから、今ムカついている。

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多くの人と会った今月、その交流を通して、しばしば「自分の置かれたコンテクスト」について考えた。
過去の作品のプレゼン的なものがいくつかあり、学生の前で「社会の中で制作すること」を語る機会を与えてもらい、遠い国に離れた古い友人との再会があり、そして海外からのゲストがいくつかあった。

わたしが数年前まではっきりと目指していたのは、「コンテンポラリーアートのコンテクストを離れて、自分のコンテクストを作り上げる」ということだった。
なのだが、この理想追求はまったくもって、簡単じゃなかった。
(いまこそ、わたしはアラカワさんと話がしたいよ!なぜアラカワさんにはそれが可能になったんだろう?)

そもそも、コンテクストの生まれない場所で人は生きられるだろうか?

海外からの友人と話すとき、様々な都市のローカルなアートシーンの話をきかせてもらう。いわゆるビエンナーレなどに代表されるグローバルなアートではなく、その都市に許容されやすいアートの傾向について聞かせてもらう。
そんな酔っ払いおしゃべりの果てに、近頃友人たちとたどり着くのは、どのような形式の活動であれ、10年はその都市に居て、そこで発生しているコミュニティや文脈に足を支えられて、やっと考えを深めていけるという面はあった気がする、というものだ。
そして、やはりそのコミュニティで受け止められるアートの形式は、そこに居る自分と切っても切り離しがたい。

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そして、もやっとする。

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なぜ、わたしがこうまでも「文脈依存」に抵抗するのか?には理由がある。

戦争は人間の罪だと教えられる一方で、個人の罪だとは誰も言わなかった。
それは、あまりにもおそろしい事実だからだろうか。
子供心に、人類の罪なのは理解できたが、「でも・・・」と不思議だった。
実際に「原爆を落とす」を決めて実行する段階に居合わせた誰も、「これはあまりにもひどい。やめよう」とは、少なくとも死ぬ気で行動はしなかった。
実際に原爆が落とされるまでの経緯は複雑ではあるが、後世に生きるわたしから見れば、それが落とされるに値する絶対的な理由は決して多くはなくて、人体実験の側面が一番強いのだろうとおもう。
アメリカは戦後、広島の比治山にABCCを設置したが、そこで得られた治験が被爆者に還元されることは無く、後の放射能影響のための尺度を作っただけである。
なぜ、後のための尺度が必要か?
アメリカが見ていたのは当時の「目の前にいる被爆者」ではない。
未来に彼らが行うことだ。

第二次世界大戦について学ぶにつれ、わたしの関心は "大きな意図のなかで個人は決してひとりの意思を保てない"、に傾けられていった。
ヒットラーにせよ、日本軍にせよ、そしてアメリカが言うように世界平和のために原爆を落とした誰かにせよ。
もちろん、それは戦争に限った話ではない。
日常において、人は「誰か」を支配するために創意工夫をこらして個人の判断力を失わせ、そのためになのか、そのせいでなのか、より大きなコミュニティ/社会を操作する。

私はなにに絡め取られ、所属しているのだろう?
どうして、そのコンテクストから離れることができないのだろう?
あたらしい自由は、コンテクストからの自律ではないのか?
それが、多様な作品を作るなかでも変わらずに目指されている、わたし自身への問いだ。
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いつもより多めのゲストの「最後」にオバマ大統領がヒロシマに来た。
彼が謝罪しないことに対して、どうという想いも抱いていなかったのに、すこし違和感を感じ始めたのが来日前に報じられた塩野七生さんの"日本が謝罪を求めないのは大変に良い"という内容のインタビューだった。曰く、悪がしこい相手の上をいく逆転の発想なのだと。
そうかもしれない。
けれど、その逆転の発想を、ヒロシマの人たちはもう十分にやってきたのではないか。
被爆者が長年とってきた抗議はデモではなく、座り込みというとても静かな態度だ。
おそらく、その静寂の影には、被爆者として生きるなかで受けてきた差別に由来する部分もあるのではないか、と想像してみる。
今回、被爆者の方々のなかには、"謝罪を求めれば、核兵器廃絶が遠のく"ことを懸念して、謝罪を求めない方向に舵を切ったという話も報道されていた。
いつまで、彼らは人類のためを思って、相手の上をいく交渉をし続けなければならないのだろう? 
塩野さんの言うように相手は悪がしこいが、正直なところ謝罪を求めても求めなくても、大差ない気がする。
なにしろ、国としての日本はどうあったって動かない。
(日本政府は、唯一の被爆国でありながら核廃絶の合法化に対して消極的である)
そして、それこそアメリカ大統領は個人ではないのだから、そうそう感情的に動かされたりしない。

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オバマ大統領は来ないよりは来たほうがいい。
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ザグレブのアートライターに平和教育やアジア侵略の話をしていくなかで、アメリカの誰からも謝罪が欲しいと思ったことはないとわたしが言うと、不思議そうな顔をしていた。
そこで、ふっと、もやもやしていた想いを口にしてみた。
「でも、それはわたしがそのように教育されたからかもしれない。なにが、国家の意図であり、なにが隠され、教育されたことなのかはわからないものね」

そう語りあったのは、塩野さんのインタビューが出る数週間前の話であり、実際にオバマが来ることが確定したよりも前のことだった。

被爆3世ではあるが、それでも当事者ではないわたしは、ある意味ではオバマと大差はない。
彼もわたしも、誰かの経験を歴史の一部として学び、だがしかし、それを知らないとは言えない立場にある。
そのような立場のもとで、ヒロシマでスピーチする人は市長であれ市民であれ、そして大統領であれ、まるで悪が空から降ってきたかのように、その日のことを語るしかない。

けれども、なぜあのスピーチを賞賛する必要があるだろう?
広島=戦争で荒らされた土地には普通の生活も息づくが、それを加害者が声をあげて寿いでどうするよ。
「謝罪しない」は、政治的に受け取るしかないものではあるが、被害者が讃えるようなことではない、黙してでも抗議するところだ。
その抗議は、実際に被害にあった人と、後を生きる、加害者にもなり被害者にもなる人々のためにする抗議だから。


「被爆者の経験談」、こうして文字にしても多くの人はうまく想像できないだろう。
それは、生きている人が一瞬にして肌を垂れ下がらかして咆哮し、やがて差別にさらされる話であり、
痛ましく特異的なのは「人体実験」だったという点であり、たかだが70年前の「同時代」の話なのだ。
まだ歴史になる途上に「今」は関わっている。常に。








2016/05/26

[学校が編んでいる(仮)|公開制作とワークショップ]

7/16-18 @blanClass


「正規のメンバーではない私」がここで生き残ろうとしている。その時に編み上げられる心の構造を見る。ワークショップでは、インタビュー・ショウの手法を通して、語りが物語に固められる過程の言葉から逃げたり構築したりする予定。
ゲスト:松田弘子(俳優)


日程:2016年7月16日(土)ー18日(月・祝)
16日(土)18:30-20:30 ワークショップ1[ルートから逃げながら道を作る]
17日(日)18:30-20:30 ワークショップ2[過去が要請する手順と戦う]
ワークショップ:1回 1,500円/2回 2,500円(要予約)
18日(月・祝)13:00〜 公開制作(入退場可)18:00-20:00頃 公開通し稽古+フィードバックパーティー
公開制作:日中の見学のみ 500円/公開通し稽古+フィードバック1,800円(ワンドリンク+α)
予約方法
以下の内容をイベント前日までにメールにて送信してください。こちらからの返信を
持って予約完了とさせていただきます。当日の場合でも準備がありますのでご予約
をお願いします。なお定員に達した場合などお断りすることもございますので、あら
かじめご了承ください。
〈メールアドレス〉info@blanclass.com
〈件名〉イベント名
〈本文〉1)日にち 2)氏名 3)住所 4)メールアドレス 5)参加人数

2016/05/08

遠くへ公開する


なるべく、縁の遠いものを助けるようでありたい

そう、おもわず口にしたのは今年の4月中旬のことだった。

向かいには劇作家というのか脚本家というのか、ひとりの人が座っていて、わたしたちは東京都現代美術館の『キセイノセイキ』を見た帰りだった。誰か美術畑では無い人といってみようと思い立ち、ちょこちょこ顔を合わせたりはするもののゆっくりお話する機会のなかった人をお誘いした。

一年くらい前のある集まりだ。

わたしたちは有名な海外のダンス記録を映像で見て感想を言う場に居合わせた。
彼女はその有名なダンサーの動きを、「江頭みたいだと思った」的に言い表してしいて、うふふふと笑っていて、あんまりにもうれしそうで、わたしは爆笑してしまった、その前から作品は見ていてすきだった、でも、この江頭発言がハンコを押すようにしてわたしは彼女と話してみたいなと思ったんだとおもう。わたしは江頭をよくしらないのに、でも記憶のどこかにあるぐにゃぐにゃした動きは瞬時にYoutubeで今見ている超有名なコンテンポラリーダンスと結びついて、爆発的に笑っちゃった。

--

1.
自分から誘ったくせに、わたしは『キセイノセイキ』のことをほとんど理解していなかった。(本当に悪い癖だとは思うものの、前情報をチェックすることをあまりしない上に、文字から入った情報を勘違いすることが多くて、告白すると「キセキノセイキ」だと思っていた。)
そんなだったから、行ってみたら想像していた以上にハードな内容に慌てつつも充実していておもしろく観入り、同時にふと政治色の濃い展示に誘ってよかったのかな?と気になって聞いてみると、一緒に行った人はおもしろがってくれていた。

ただ、ところどころなんだか薄ぼんやりとした作品があった。

その理由を知ったのは、展示を見て日が過ぎてからのことで、途端にTLやMLに『キセイノセイキ』が美術館からの規制にあっているという、わたしなんかは油断すると仕込んだネタなんだろうとスルーしてしまいかねない事実が断片的に、だが、堰をきったように流れてくるようになった。本当はもっと前から流れていたのに、気づかなかっただけなのかもしれない。

事情はわかりにくい。


というのも、ネット上に流れてくる口調からすると、この問題は、どうやらすでにどこかでは共有されていたような節が感じられるのに、ほんの少し外れたところにいる人間には、「ところどころなんだか薄ぼんやりとした作品があった。」という地点から出る契機となり得るだけの情報が「一発」ではやってこなかったからかもしれない。


そして、おそらく「一発ではやってこなかった」裏にこそ「事情」があるのだろう。

そして、「一発ではやってこなかった」が、わたしは少なくとも『スタジオ設立30周年記念 ピクサー展』を見たついでに、たまたま『キセイノセイキ』を見ることになった来場者よりは、情報を得ている。
この、現場の鑑賞者に情報が隠されている状況が、どこまで誰によって意図された結果なのかはわからないものの、一連の出来事のなかでも、わたしはとりわけゾワっとする。
隠す側があり、隠された側がある、いずれの視点からも「身内の外にいる鑑賞者」の存在が見えずらいのはなぜなんだろう?
「現代美術」は文脈依存が強いが故に、外部の人にはわかりにくいと言われる。
それが悪いことばかりだとはわたしは思わないのだけれど、同時に「外と共にある」こともまた、同じように「現代美術」と呼ばれるジャンルが意識的に内外へと提示し続けてきた問いだ。
それでもなお、「身内」の外につながることには、こうして言葉で述べる以上の複雑な手続きが必要なんだろうことが今回の件を通して見えてくる気がする。


現在において、わたしが『ピクサー展』の来場者よりも「事情」を把握できているのは、関係者をSNSでフォローしていることと、この春からアーティスツ・ギルド(AG)のメンバーになったために、AGのMLが流れてくるという理由以外には無い。
メンバーになったけれど、オープニングに行かなかったから事情を知るのが遅れた、とも言える。
アーティスツ・ギルドは、『キセイノセイキ』の企画組織である。
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AGのメンバーになったのは、ひとことで言えば「ご縁」です。

正直なところ、組織的な繋がりに「所属する」ことに対しては、わずかに逡巡した。
別に、何かに所属することをNGとするほどの主張があるわけではないのだけれど、どうにもなんとなく不安になる、という性癖を持っているらしい。
それでも、「ご縁」に与えられた繋がりを覗いてみようと決めたのには、30代後半になって、「アーティストにとってのセーフティーネットとは何か?」という問いと、社会的な後ろ盾を持たずに自由でいることの一面に含まれている「危険」の深刻さに直面した時期があったからだ。

わたしは、AGが政治的な思想や態度を同一にするものではないことを確認し、この繋がりに加えられることになった。

機材共有を掲げたAGが「セーフティネット」だとは決して言わないが、
「アーティストの連帯」が何を指すのか、どういった理由でそれへの言及が世界的に広がっているのか?私もまた、至るべきして興味を持つに至り、考えるためにここに参加する。

--

2.
この春は他にも自らの肩書き的な変更が同時にいくつか起こり、所属することとセーフティネットの関係にそこはかとなく思いを馳せることがよくあった。
そんな時期だったからと言うとこじつけすぎだけれどまったく無縁でもない気分のなかで、数件のアート関係の支援をした。
そのうちの一件は、ニューヨーク在住の女性キュレイターが地下鉄で暴漢に襲われ、命はあるものの顔の整形手術を受けなければならなくなった、その費用は保険ではまかなえる額ではないので支援を募るというもので、キュレイターの友人たちが立ち上げたファウンドだ。
もう一件は、直接の交流は記憶に無いものの、わたしと同じ大学の一学年上に在籍していた女性、谷口緑猫さんの個展『ヒヤシンスと少年:谷口緑猫の軌跡』だ。
こちらも、彼女の友人たちが、その人の 死をきかっけにたちあげた運営組織による。


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なぜだろう、見知らぬその死を聞いたとき「どうして彼女は死に、自分は生きているのか?」という想いが知らず知らずのうちに止めようもなく湧き上がってきた。


「彼女が死んだ」
この死はまるで自分自身が死の淵にたっていた時間の証のようだった。
こころに近い死であり、でも知らない命だ。

彼女もそれを感じたかどうかは知らないけれど、
ふとしたきっかけで「周囲」が消えたわたしの30代後半の頃に時計の針を重ねるようにして、彼女は死んだ。

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「あともう少しだった」

そう誰かが振り返ってつぶやいたとして、この「あともう少し」が指し示している到着地点が生なのか死なのか、それは未来からしか言えない、そんな「あともう少しだった」ポイントを経て誰かは死に、誰かは生き延び、あちこちの関係者のなかに掛け替えのなさが駆け巡っている。

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アートに業界というものがあるならば、それは人と人の縁による繋がりだけであってほしくない。

アーティストの人生は、社会保障の枠外にあり、人との縁によって守られて進むようなところがあることを、わたしも知っているし、恩恵をいつも受けてきたし、闇雲にこの隠されたシステムを否定することはしない。
けれど、年を経ることで切実さを増した想いがある。
縁の遠いものも助ける生き方をしたい。
あるいは、縁の外にも複数の足場を築いておかなければならない。

人と人の繋がりがセーフティネットなのは言うまでもないことだけれど、

でも、それでは間に合わない出来事が人生には起こる。
血縁が最初から与えらえない人生もある。
縁を紡ぎにくい精神を抱える人もある。
また、時にはまったくの他人や制度だけが引き上げられる闇もある。
縁にしか接着力がない世界は危険であり、そこには社会はない。
どのような魅力を放たない人生も、すべからく守られる契機を与えられるという理想が、社会が目覚めてきた進化の一側面であり、アートがその戦いを支えた日もあるだろう。
それは、表現の自由の系譜でもある。
様々な運動や思想に、個人的な経験はパンチをくらわせては進ませてきた。
繰り返すなら、アートの歴史は、縁によって支えられもするが、縁の選定を否定する。市民の選定を否定する。
いや、選定は起こる。
だから、わたしたちはそのプロセスと迷いと思い込みと不和と終わらない言い争いを公開する。

--


縁の遠いものを助ける。

縁の遠いものに助けられる。
そんな乾いた豊かさを体にまとわりつかせて、この先を生きていきたい。
「あともう少しだった」
あのポイントの後の日々が、重ねられている。
あのポイントに立った二人の女性と、その周辺で動いた人は、わたしなのだ。
わたしの親で、わたしの友達で、見知らぬ遠い人だ。

死が、遠い命のなかでメタモルフォーゼしてくれるのを、わたしは過去から見ている。

親や友や業界を包み込む、やがて愛に似るものを彼方から託されている。


わたしは、「なるべく、縁の遠いものを助けるようでありたいと思ってて」と、4月中旬のある日にひとりの女性に語りかけた、その言葉は不意に出たものだけれど、彼女や彼女の作品を知らなければでなかった、不意にどこからか何が主体なのかも不明の信頼が投げ出された。





2016/01/31

私と異なるものが、自由を与えている

美術展のオープニング・レセプションに顔を出さなくなって久しい。
特に行かないと決めたわけではなかったけれど、静かに作品だけを見たいというのもあって、人混みを避ける気持ちが強くなっていったのだろうし、
自分の活動基盤としての意味も含めて、興味のあるほうへ動いていたらすっかりギャラリーや美術館から足が遠のいていたという時期が随分と長くあった。

それでも、近年、再び展示という形式のもつ豊かさ、特に観客に開かれている仕組みに懐かしさと新鮮な気持ちを呼び覚まされている。
劇場は体を時間に固定しがちだが、確かに展示会場にはそれが少ない。

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数日前に、友人のMatthew Monahan が参加している『村上隆のスーパーフラット・コレクション』展のオープニングレセプションがあり、珍しく参加してきた。
横浜美術館には何度も通っているのに、初めてあの建築がいかに大きかったのかを実感させられた夜だった。
強烈なヴォリュームの物量と、おそらく「コレクション」として、他に類を見ることは簡単にできないであろうことが一目瞭然の守備範囲の広さが、建築それ自体を内側から否応なく押し広げるようだった。
友人とここってこんな広かったんだねーと顔を見合わせたのだが、展示によって、本来あるべきように、ひとつのまとまりのある空間として建築が見えてきたのが印象深い。
写真では見聞きしていても実物をみたことがなかった作品が多くあり、縄文から現代までに生き残ってきた「人工物」の数々を目の前にして、やはり呆然とするしかない。

そんななかに、Matthewの彫刻が数体展示されている。
少し話が飛ぶが、過去8年にわたって、私は美術大学の非常勤講師という仕事を務めさせてもらった。
その過程で、いつも心のどこかにあり、たびたび頭をかすめたのは、目の前の学生の中にもMatthew MonahanやLara Schnitger がいるはずだということだった。
彼らは私の古い友人であり、私が近寄ろうともしてこなかった純然たる巨大なギャラリーシステムの中で生きているアーティストたちであり、けれども、ここで最も重要なこととして言ってみたいのは、私が自分の領域と感じて育んできたアートとは違って、彼らはマテリアルと格闘しながら手に取れる「物」を作り出しているということ、そしてその「物」のなかには、プリミティブな、あるいは個人的な手つきと美術が培ってきた眼差しが同居しているという点だ。
私は油断すると「物質」からも「美術」からも心を離してしまいがちだが、彼らの作品を見て語り合うたびに、「物」を通してアートがあることの面白さをいつも思い出してきた。
そして、この、自分が作る作品との異なりをとても大切に感じる。

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アーティスト、おそらく美術家は本来多様な立場や手段に開かれている活動家である。(と、願いたい)
どのようなマテリアルやメディアでも、コンセプチュアルであってもポリティカルであっても私的であっても、ポップであっても抽象であっても、物語性であっても世界の仕組みのダイナミズムであっても、先人たちが積み上げてきた美術固有の問題に根ざしていても、それらの問題から離れようとしていても、
いずれにしても、アーティストは自分の手に、とても繊細なあなた自身と、アートが外の社会とブリッジを繰り返すことによって培ってきた「文脈」という、時に厄介な複雑さを同居させていいという確信を、学生たちの心のなかに小さくとも持って欲しいと考えてきた。

なぜなら、日本の美術大学の教育環境は、どうしても教える一人の人格に収まった手段や方法に依存しがちで、よほど注意して多様な教師を揃えない限り、なかなか「教師個人が影響を受けた時代のムーブメント」のようなものから眼差しが離れにくいように思う。
(そのことはもちろん、こんなことを書いている私こそが、小さく閉じた場所に立っていることを思い出させる。)
その結果、時に「あなた自身にしか由来しない問題」を、若い人が知らず知らずに自分自身に禁じてしまうような、教えてくれる人へ向かった勤勉さを身につけかねないような危険を感じて怖くなる。当然ながら、彼らだって制作を重ねるなかで、そういった呪縛からは解かれていくに違いないにしたって。
私塾であれば、それでいいだろう。
けれど、大学は私塾ではない。と思う。
時々本当にわかんなくはなる。

そして、学生は年間約200万円もの大金を支払っている。このことが私にはどうしても無視できなかった。

毎年、一ヶ月間だけとはいえ、20人前後の学生を目の前にして偉そうに立つことは、とても気恥ずかしく窮屈なことでもあったけれど、私には200万円の一部分が回り回って使われているのだから、オファーされた仕事としてできることはなんだろうか?と考え続けた8年間でもあった。(それはまぁ、どうやって出演料を捻出しながら公演を打てるだろうか?という、非常に大衆のお財布と密接に繋がった活動に、私自身が没頭した時期と重なった8年でもあるかからかもしれない。)
だから仕事として、
私は、過去から現在にわたるまでの多くのアーティストが開いてきた手段や立場の多様性を前提として、例え河村美雪個人にはわからなかったとしても、あなたにはあなた固有のメディアや問題が発見される可能性があり、それに向かいあうことが圧倒的に許可されていることを伝える、少なくとも伝えるチャンスを逃さないようにすることを、どうにかして大事にしたかった。
なので、時々、それはあなたが本当に触りたい問題なのかどうかを聞き続けることになり、かえって混乱を生じさせたかもしれない。

目の前には、私とは異なるタイプの可能性をもった一人一人がいるだろうことを思い、どうやったらそれを潰さない自分でいられるだろうか?と自分の言葉を頼りなく思うこともたびたびあった。
その不安から私を誘導してくれたのが、MattやLaraの作品に、そういった「物」を作らない私自身が複雑でぶっとい在り方を目撃して喜んでいるという実感だったように思う。
自分とは異なる手段や立場や活動がある。
だから素晴らしいのではないが、そのことが同時代を生きる"私たち"であることに、自由を植え付けてくれる。

そして、8年の間に何度も訪れた別の「目撃」についても書いておきたい。

学生とはいえ、彼らはアーティストであり、授業の時も卒業後もたくさんの、私には無いおもしろいものを見せてくれる。
その目撃は、なんて本当にすてきでありがたいことでしょう。何しろ、その時「先生」が消えて、わたしも、いつも通りにたったひとりで心細いままに立っていられるようになる。

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村上隆のスーパーフラット・コレクション』に戻る。
朝まで続くパーティのなかで、私たちは最終的に16年前と同じようにアホみたく踊って笑っていた。あとから、あそこで撮影された写真だけは公開されないことを祈ろうと苦笑し合ったが、実のところ、ああいう時のダンスは下手くそで最高に狂ってて、なにしろキュートだ。
オープニングレセプションとはなんだろう?
その夜の中では、多くのアーティストに会い、敬意を抱えたり、自身に絶望したり、呆れたり、嬉しくなったり、そして誰かの成したことを祝祭して、ただただパーッと派手に散らす。
特に、今回の展示を見た後では、ケチケチせずに太く生きることを心が求めずにいられない。たとえその火がすぐに消え去ってしまうとしても、今回は、なんだかあそこにあった強さを覚えていたいと思った。


2015/09/20

「すばらしく」はない

今年の春くらいから、不眠が悪化している。
試しに睡眠導入剤をもらってみても、起きれなくなったりでどうにもしようがなく、いつもこうして朝を待っている。

眠れないのは、ついついニュースを追ってしまうからだろうか。
昨夜遅くに安保法が可決された。
わたしは、究極的には護憲派だけれども、沖縄のような現状があるなかで「アメリカから独立する」ための手続きとして、立ちどまってしっかりと憲法に向き合うべき時は必ずあると思っている。
つまびらかに考えることは、正体不明の化け物に対する不安に打ち勝つことだし、その先に九条を守る手を新たに打つこともできる、と信じている。
ただし、それは圧倒的な理想を突き進む覚悟を持つことなんだけれど。
というか、そういった議論を尽くすのが、政治家の仕事ではないの。

海外の友人と話すとき、日本は本当には民主主義の国ではないんだろうなと思うことは多々ある。
必ずしも安定した国の人だけを目前にしているわけではない。
難しい状況をかかえて、自分の国に帰るビザを持たない人もいる。
それでも、日本にいるときに私が感じている抑圧を、彼らが理解できるとは思えない。
特にノルウェーという国を歩いたあとでは、なぜ、日本で(特に女性として)生きることはこうまでも複雑で、黙って飲み込むことを多く要求され、「男性性に由来するプライド」への気遣いに疲れ果ててしまわなければならないのかと考え込まずにいられない。
そして、多くの人は、その疲れさえ気づかないようにして一生懸命に他人を気遣って生きている。

ノルウェーは、必ずしも「すばらしく」はなかった。
けれども、人々は、自分一個分の人生を疑う必要なく生きている感じがした。
このことを、まだうまく言えないのだけれど。

「移民する本」は、わたし自身にとっては、休憩のような側面を持ってスタートした企画だった。
この企画をアートと呼ぶのは、やはり少し大げさにすぎるようにも感じる。
もっと単純に旅であり、長いドネーションの仕組みなのだと言うべきなのかもしれない。(移民と難民は混同してはならないが)
だがしかし、やっぱりそれだけでもないだろう。

オスロへの旅は、予感はしていたけれど、決して明るく華やいだ気持ちに満ちた時間ではなく、平等性や生きることの権利、女性の人生について考える時間だった。

それを持ち帰ったいま、ようやく「休憩」ではないほうの抽象的なアートにもういちど向かう気力を持っている。
けれど、その気力とは別にして、政府によってゲームの捨て駒のように扱われた「私」の人権が、かわいそうなのだ。
それが、夜明け前に見ているもの。
ゴミのように当然のこととして捨てられた人権が、ほんとうにかわいそうだ。









2015/09/07

冬を知らせる雨

やっと床上げした。
オスロでの2週間は、お天気に恵まれて、春の日のいちばんうつくしい瞬間を一日中味わっているような日が続いた。
ある日、少し肌寒くなり雨がざーっと降った。
わたしが顔を上げると、本屋のオーナーのひとりであるPilがこちらを見て少し笑って、冬がくるんだ。と言った、とかいうとまるで作り事のようだけれど本当に映画のような一瞬だった。

いつものことながら、どこかに馴染むのに苦労したことはなく、去るのにも苦労はない。
ただ、今回は2回の英語のプレゼンを終えて気が抜けたのか、最終日に風邪をひいてしまった。
それを悪化させながらの帰国となり、今朝まで眠り続けていた。

まだ部屋は帰国直後のわさわさした感じがある。
床上げしたつもりが、夜には腹痛で冷や汗をかくなど、日本にいるあいだの自分がなぜこうも痛みや咳や辛さで動けないのか情けなくなる。
データのチェックだとか制作だとかはあきらめて、ゆっくりと時間をかけていくしかない。

すこしづつ、オスロのこともなんということはないけれども、書いていこうとおもいます。