2016/12/14

Starman

朝の早い時間は、色を使う作業をする。
最近は、Pablo casals を聴いていることが多い。
それから、週の何日かは家を出て映像編集に行く。
歩きながら、ボウイのStarman を聴いている。

子供のころ、路上で嫌なことがよくあった。
その多くのシーンのなかでは、泣いても叫んでも誰も助けにこなかった。
不思議だと思っていた。
道を一本でも違えれば人がいて、道なりに家々があって、その中にはきっと誰かが住んでいる。けれど、誰も出てこない。
まるで、わたしの存在が見えているのは空から私を見下ろす嫌なものだけで、そいつがどこにいってもわたしを発見するのだろうか、それ以外の人にわたしは居ないみたいだ、と叫びながら、頭が冷えていく。
あとからその視線が蘇るたびに、狂いそうな辱めを感じる。

昨夜から、ネットに接続すれば、アレッポの人々の「最後のメッセージ」が流れていた。
わたしは、彼らを、まるで天からミニチュアを見下ろすもののようにしてつまみ出してあげたいのに、ただバスに乗って音楽を聴いている。
声が見えているのに、わたしはつまみ出してあげられない。
あるいは、つまみ出さない。
わたしがつまみださなかった、「だから」というだけでは無いにしたって、彼らは本当に死んでしまったのだろうか。