今年の春くらいから、不眠が悪化している。
試しに睡眠導入剤をもらってみても、起きれなくなったりでどうにもしようがなく、いつもこうして朝を待っている。
眠れないのは、ついついニュースを追ってしまうからだろうか。
昨夜遅くに安保法が可決された。
わたしは、究極的には護憲派だけれども、沖縄のような現状があるなかで「アメリカから独立する」ための手続きとして、立ちどまってしっかりと憲法に向き合うべき時は必ずあると思っている。
つまびらかに考えることは、正体不明の化け物に対する不安に打ち勝つことだし、その先に九条を守る手を新たに打つこともできる、と信じている。
ただし、それは圧倒的な理想を突き進む覚悟を持つことなんだけれど。
というか、そういった議論を尽くすのが、政治家の仕事ではないの。
海外の友人と話すとき、日本は本当には民主主義の国ではないんだろうなと思うことは多々ある。
必ずしも安定した国の人だけを目前にしているわけではない。
難しい状況をかかえて、自分の国に帰るビザを持たない人もいる。
それでも、日本にいるときに私が感じている抑圧を、彼らが理解できるとは思えない。
特にノルウェーという国を歩いたあとでは、なぜ、日本で(特に女性として)生きることはこうまでも複雑で、黙って飲み込むことを多く要求され、「男性性に由来するプライド」への気遣いに疲れ果ててしまわなければならないのかと考え込まずにいられない。
そして、多くの人は、その疲れさえ気づかないようにして一生懸命に他人を気遣って生きている。
ノルウェーは、必ずしも「すばらしく」はなかった。
けれども、人々は、自分一個分の人生を疑う必要なく生きている感じがした。
このことを、まだうまく言えないのだけれど。
「移民する本」は、わたし自身にとっては、休憩のような側面を持ってスタートした企画だった。
この企画をアートと呼ぶのは、やはり少し大げさにすぎるようにも感じる。
もっと単純に旅であり、長いドネーションの仕組みなのだと言うべきなのかもしれない。(移民と難民は混同してはならないが)
だがしかし、やっぱりそれだけでもないだろう。
オスロへの旅は、予感はしていたけれど、決して明るく華やいだ気持ちに満ちた時間ではなく、平等性や生きることの権利、女性の人生について考える時間だった。
それを持ち帰ったいま、ようやく「休憩」ではないほうの抽象的なアートにもういちど向かう気力を持っている。
けれど、その気力とは別にして、政府によってゲームの捨て駒のように扱われた「私」の人権が、かわいそうなのだ。
それが、夜明け前に見ているもの。
ゴミのように当然のこととして捨てられた人権が、ほんとうにかわいそうだ。