2016/09/24

7月に、横浜のblanClassで公開制作をやった。
大きな作品のごくごく小さな一部分を探って作って、最終日に見せたのはそのなかでもエンターテイメントな要素のあるパートにすぎない。
目の前にはいつもマチコさんがいて、「美雪さんの質問は自分のことがわかるからやだー」と言っている。わたしは「なぜ?」しか重ねていないのに。

私は決まりごとを練習する稽古はこっぱずかしくて苦手で、ルートを決めるためのうだうだしたことを稽古といっている風がある。
だから、一応の「本番」まではウジウジしてて、でも「本番」になれば驚くほど解放されていて、私でもない誰かが語っている。
あの人は誰なのかわからないが、すごく完全な自由を謳歌していて、あの時間だけが本当に生きている感触がするのにもかかわらず、あれは「私」という実感が訪れない。
何年このようなことをやっていても、いまだに、はるか彼方から他には無い自由を弾いている女を見ている。

その一方で、この10日ばかりはひきこもって「Emblem」のプロットタイプを追い込んでいる。
ひたすらひたすら黙々と作業したり眠ったりしていて、誰にも会いたくないし誰とも話すことなんかないし、どこにも自由がなくてただひたすら「固まっていく」。のにもかかわらず、この地味で静かな何も語らない、あるいは透き通って透き通って消えていく私が「私」なのですと、体の地面からふつふつと支えくるものがある。

世界中の目や手や唇から隠れてしまいたい。
あなたのしあわせにもふしあわせにも関わっていない、
暴力の無い透き通る行為が描くことのなかから立ち上がってくる。
けれども、やはりこれが終われば、またあの誰ともしれない女が立って語っているのを見に行きたい。