2017/07/11

2017/06/12

映画『セールスマン』



上7行目:罰人 → 罪人

下5行目:込えて → 超えて

2017/06/10

20170609



下3行目:抗抗して→拮抗して


2017/05/29

先月あたりに『10:04』という小説を読んでいた。
ストーリーがはっきりと無いことと事実なのか物語なのか曖昧な点が、絶賛もされ、酷評もされたという触れ込みだったけれど、世界にはこの程度の物語性の弱い小説はいくらでもあると思う。
むしろ、丁寧に「世界観が変わる瞬間」を、森の小道に石を置くようにして進むものだから、この小説家が十分に予定を練って書いていることを容易に伺わせて、「ストーリーがはっきりと無いことと事実なのか物語なのか曖昧な点」というのは大した問題ではなかった、というか、やっぱりちょっと残念だった。

作品を作るときに、終わりを知らないルートをどのくらいギリギリまで進んでいけるだろう?数年前まで、そのことばかりを考えていた気がする。

ここ数日、もう何度目かわからない作り直しをしている『Emblem』に集中していた。
いちど座るとあっと言う間に時間がたってしまって、スーパーに行ったり料理をするのもいやで、食欲もわかずにえんえんと作業していた。
そういう風に身体を使ってはいけないと思うんだけれど。
でも、たぶんこれで迷っていた箇所を打ち止めにできる気がする。

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やっとマスクを外して歩くことができる日が増えてきた。
夜道を歩くとき、春の甘い匂いがあちこちの草花から漂ってくる。
部屋を抜けてゆく風が気持ちよくて、そのまま眠れたらどんなにいいだろう。

一方に、造形を形作られていくものがあり、一方にじっくり追っている不可視の、複数のこころがある。終わりの知らないこの制作過程に、ますます没頭している。

とても不思議なことのようにも思うのだけれど、なぜかわたしは最近、しあわせを感じてる。
肌が粟立つように刻一刻の外界を感じながら、あなたにオープンであるわたしが同時にきれいに生きろと私を支えている、こうやって世界観が変わってきたなぁ、これまでも、こんなふうだったんだ、と作る間中、何者かに語りかけている。







2017/05/23

やはり、毎日書くと決めたら毎日書かないと、書かない。
それが咳の記録にしかならないとしても、とりあえずは書くか。
人知れず書き溜めては書き直し、何かをここで練ってみようと思う。
毎日、自分の体のなかでは練られている連なりを感じるのに、それが書かれないことで捕まえにくくなってしまっている。

かれこれ2週間ほど、もう一生この咳は止まらないのかもという感じで、夜間の咳とつきあっていた。
今も、薬を飲み忘れたら怪しいので、今年はもうずっとこんな感じで夏までいくのかもしれない。願わくば、一年のうちにいっときでも完全に咳が止まるシーズンがくることを気長に待つとしよう。

前回、少し触れたblanClassで見たものの続きを書こうと思っていたのに、その直後から咳が再び悪化して、それどころではなくなってしまった。
考えてみれば、少しでも自律神経を整えて環境の変化に体が反応しないようにと、ジムでウォーキングを始めたことと、今年の黄砂の始まりが重なったらしく、ジムにいくたびに咳も悪化してしまったようだ。毎日、歩き出して5分もしないうちに喉が痛くなるのでおかしいとは思い始めていた。そうすると、深夜に咳がとまらなかった。
歩くのは爽快で気に入っていたし、毎日の同じ時間に集まる人との「暗黙のトレーニング機器の順番こ意識」をシェアしている感も生まれつつあり、日々の新しい習慣として面白くなりかけていたのに、医者にストレッチ以外は禁止を通達されてしまった、残念だ。
blanClassでの時間を、今日は書くことができない。
意識が遠のいているというより、毎日のなかで思いだす時間も途切れずにあるのだけれど、その分、書くことができなくなりつつあるんだろう。
あの後、本を二冊読み進め、そのうちの一冊はどうも読了にはいたらなさそうだ。
映画は見ていないし、ライブパフォーマンスは二軒キャンセルしたし、行こうとおもっていた展覧会をいくつか行けなかった。
自分のクリエイションとしての、でもあまりおもしろくはない部分の、つまりバイトでも雇った方が良さそうな仕事が続いており、それからの現実逃避でもあるのか、私にとってのドローイング的な、つまり発表することのないだろう作業をいくつもした。

咳は、ある漢方を1周間ほど処方されていた。
強い薬だから今夜を最後にして、明日からは継続して服用できる別の漢方薬に変えましょうという方針になったその夜、最後の一包を服用した数時間後に鼻血がつーっと出て、ピタリと(とりあえずは。でも激変として。)咳が止まった。
鼻血は人生で二回目かも。
一回目は、高校生くらいのころに高熱をだした深夜に、突然だらだらと止まらなくなったことがある。鼻血が出る感じは、鼻水が出る感じよりもずっと「だらだら」している。






2017/05/07

今年はなるべく毎日ただの日記のようにblogを書こうと思っていたのに、気がつけば5月だ。体に無理な日程は組まないで甘やかすように暮らしているのだが、それでも日々はあっちゅうま。

ついこの間までの、2016年から2017年はじめの冬に珍しく2度も酷い風邪をひき、その置き土産で喘息が勃発して4月前半は横になって眠ることができなかった。横になると、喉からチカチカとした咳が沸き上り、全身を波打っていく。
咳が始まると、それが続くのが数時間のことなのか、数週間のことなのか、数ヶ月のことなのか、未だに読めない。
終わってしまえば「今年の咳の期間」のようにして、まとまった塊の時間が私のなかに位置するけれど、終わるまでは、文字通りの暗中模索、ゴール不明の瞬間のつらなりだ。
というか、出口を探し出すべく、いや、むしろ作るべく、暗い土の中に穴を掘り続けているようなものが「咳が終わるまで」にはある。

と、いう、そういうことを私はもうずっと作品にしようとしているようなのだが、こんなものを冷静に考えてしまうと、ハテ、なぜそれを作品にするのか?とたちどまる。

いま、「作品」と書いたけれど、どうもここのところ、「作品」という言葉がしっくりこなくなってきた。アーティストが「作品」という言葉を警戒するのは珍しい話ではない。だから、わたしはわたしの出会ってきた人々の中にも居た、「アーティスト」や「作品」といった言い方を自分に与えることを強く拒否する姿勢を見てきたし、そのたびに、まぁまぁそれはわからぬでもないが、わたしには(それこそ)しっくりともピンともこない、別の切実さなのだとして、「アーティスト」や「作品」という言葉に大きな期待も拒否もしない感じを決め込んで使ってきた。
では、じゃあ、今のわたしがふと感じはじめた「作品」という言葉のしっくりこなさ加減が、あの彼らと同じように切実な強い態度かというと、そうでもない。
年をとったのかもしれないが、わたしの態度はどんどん弱くなっている。

ときどきネットのニュースを見ていると、いつの間にか表舞台から消えていた有名人が復活したとか、復活しないが別の人生を歩んでいるという、なんとも内輪感覚に溢れた記事を目にする。
最近、そういう記事を読むときに、私は自分のここ数年を許可されているような、もわっとしたユルい気持ちが生まれることに慣れ始めている。
それはつまり、追われるようにして作品を発表していた時期からここ数年への変化は、まずは生きているということの優先への変化だ、とわたしが認識し始めている。
ということなのかな。
発表の停止が「一時的な休憩」であるにせよ、「枝分かれして始まった別の道行き」であるにせよ、「撤退」であるにせよ、どうでもいい、生きていて、なんだか考えたり作ったりは止まってはいない。考えたり作ったりが最終的な形になるとき、高揚よりも寂しさが鮮明になりつつあるから、「作品」というのが鬱陶しくなっているのかもしれない。

そんなものは、かつては受け入れ難い感性だった。
こんなふうに、かつてとして、区切ってみることもできる。

そのように、時間は区切られながら、心身に巣食う。
それはそうだ。
でも、同時にやはり、絶対に区切られようがないのが命のカウントダウンだ。

今日、blanClassで、岸井大輔さんの戯曲を複数の演劇人や美術家が扱うという「アラカルト」を見てきた。
戯曲として書かれたテキストは、指示のようでもあるし、エッセイのようでもある。
それを、戯曲として読んだ人と、ただの言葉、文字として読んだ人とがいた。
前者には概ねオチがあり、後者には概ねオチらしきものがない。
一応、念のためというやつで日本人らしく書いておくならば、「オチは、いいとか悪いとかではなくって」。




2017/01/15

眠れなかった。
すばらしい小説を読んだし、作っている作品ふたつがずっと頭のなかでぐるぐるして、私は眠れない。眠れないと、また体調を崩すかもしれないし、だから朝8時くらいになったら眠るんだろう。今は7時になっていない。

わたしが『竹ザル』と呼んでいる作品と、『Emblem』と呼んでいる作品はどちらも2013年の横浜の作品を作っているころにアイデアがはじまった。このふたつは、というか『移民する本』が『竹ザル』の大元ではあるが、『移民する本』は、この2013年のアイデアの骨の部分しか使えていない。
骨の部分だけに殺ぎ落とさなければ、もうにっちもさっちもいかないような、そういう時期だった。生活を変えていった。

昨晩、ほんとうは出かけるはずで、シャワーも浴びて化粧もして駅に向かって歩いていたのに、やはりどんどん気が向かなくなってしまって、喫茶店で小説を読んだ。出かければ、人々やアートに出会えただろう。なのに、どうにも人に会うよりも作っていたいほうがどんどんどんどん大きくなって、出かけるのをキャンセルしてしまう、それがもう随分と長いこと続いている。

少し前に、将棋の世界で人工知能を使った疑いをかけられた人がいたが、あの時に「それはおかしな感じだ」と思った。かけられた嫌疑の回答には興味がなく、
ただ、どう考えても、将棋のようなものを人工知能を使って勝ちにいく理由はよくわらかない。将棋は、端から見ている限りにおいて、文章を書くだとか絵を描くだとかの際に、ずっと鳴り響いて側の空気もろともわたしを支配していく思考の流れ、そのものに乗っている時間に見える。思考といっていいのかわからないけれど、なにか、そういうもののなかで広がっている喜びが、毎日毎日毎日、書かせたり描かせたりする、おもしろくって+ぐいぐいしてて、みたいな。
人工知能にその喜びの部分を任せたら、いったいでは何をすることになるんだろう?
将棋のひとたちは、勝っても派手に喜ばない。それが、ちょうど同じ時期に話題になっていたカープの優勝に沸く選手や地元民の姿と違っていて、わたしは将棋と野球を珍しく追ってみていた。 やがて、アイドルの解散問題でファンたちが動きはじめ、トランプが勝ち、アイドルはファンの購買運動や署名的な新聞広告活動と共に解散を迎え、昨日になってスノーデンの恩赦を求めて(強烈に)多くの人々が署名したというニュースが流れてきた。
人々が動かされ、動き、わななき、その「人々」との距離が様々に変わっていく「ある人」のなかには、あの「ずっと鳴り響いて側の空気もろともわたしを支配していく思考の流れ」が、大衆とは無関係にある。
「無関係」だが、それに支配された人もまた、大衆と常に距離を計りあっている。

そういったことが、わたしの作っている作品にははじまりにあった。
そして、これは「骨」だけでは作れようもないので、根拠や理由や理屈や道理の通った作り方から、あの疲れ果てる混沌とした作り方に戻るしかないのだ。
時間がかかっている。
いらいらするのと脳内で作品がふくらむのとで、眠れない日が多い。







2017/01/04

鷺にまつわる雑なことがら

実家の二階の自分の部屋の出窓的なところに座っていると、下には両親の庭、正面遠方一面に広島市街地とそれをわずかにかぶせるように左手に山が見渡せる。もう少し手前に目をやると、近所で一件だけ残っていた田んぼの脇道からこちらに登ってくる人が時々見える。今は、もうここに水が張られることはない。
『この世界の片隅に』というアニメを年末に観た時に、サギが印象的に描かれているのだが、わたしにとっては「印象的に」というよりも「馴染みの感覚」に近かった。
でも、それが個人的な由来のある感覚なのか、映画の持つ力によるものなのかは、観た時にはよくわからなかった。

正月の二日に、ひとりで比治山にある広島市現代美術館に行って『世界が妙だ! 立石大河亞+横山裕一の漫画と絵画』を観た。
立石大河亞という作家についてはまったく知らず、横山裕一氏の作品目当てに出かけたら、とてもとてもよかった、「すっげーいい正月!」と唸ってもいいと思ってる。
特にやはり横山裕一さんの、アクリルやマーカーをつかって紙に描かれた一見シルクスクリーンのようにも見える小品や、いくつもの漫画の生原稿、そして原稿を取り込んでアニメーションにした映像が、持って帰りたいくらいだ。
立石大河亞氏の作品は、少し前の時代の息遣いとともにナンセンスギャグが炸裂していて、おもわず静かな美術館のなかで声をあげて笑ってしまう。だが、ものの見方が定まっているかのような、あるいは手品やパレードといった円環のある"仕立て"を思い出させる立石氏の作品よりも、横山裕一さんの運動沸き起こる、言語と戦い抜いている世界がわたしにはたまらない。

このお二人を並べてたっぷりと観れたのはよかった。
なんだか最近、東京の美術館で流行っている「誰にでも理解できるように丁寧な導入と解説」が無いのも新鮮だったのかもしれない。だが、図録はよくなかった。

この広島市現代美術館は、比治山下という路面電車の電停で降りると川を背に山を登っていった先にある。
私の通った中学と高校からは、バスに少し乗って路面電車に乗り換えて比治山下まで行って山を登るのだが、当時はまずは川べりに降りて行くことが多かったかもしれない。
その川べりに降りていく階段がすきだった。
あれは雁木というのだと、この正月に『ブラタモリ』の広島編を見て知った。ちなみにこの日まで『ブラタモリ』は『プラタモリ』だと思っていた、中身をよく知らなかったのでプラモデルな気分のタモリの番組的なイメージだったのに、テレビをよく見てみると『ブ』と書いてあって、まぁそうだよな。
『ブラタモリ』の広島編は、たまたま自分に縁のある場所がいくつか出てきて割とじっくり楽しんだ。わたしが8歳から19歳までを過ごした仁保の黄金山が出て、そのあとに、現在の両親の家がある方向に向かって船で川をタモリが行くが、その途中に「鷺島」と呼ばれているらしい中洲が紹介される。
それを見て、母が「ああだから、この近くによく鷺が来るんだね、あそこの田んぼによく来ていた」と言った。もしかしたら、方言で言ったかもしれないけれど、よく覚えていない。
わたしが、高校をサボって比治山下で路面電車を降りて雁木を降りて川べりに立つときにも鷺をよく見た。たぶん田んぼでも見た。
『この世界の片隅に』を観た時、わたしは鷺に高校時代の気分を思い出した気がする。
朝だか昼だかに、学校の前をバスで通過して路面電車に乗って川を眺めながら弁当を食べて美術館に行って、学校が終わるまでに高校に行く。
ある日、5時間目が始まる前に教室にすべりこんだら、友人が「あんた、何しに来たんね?」と笑っている、なぜなら、その日の5.6時間目は体育で、体育こそ私が心の底から憎んでやる気の無い時間であることはみんな知っていることだった、もちろん私だって行きたくなんかなかったが、完全に休むと自宅に連絡されかねないわけだから、その日はサボりたいなら体育に出るしかなかったのだ。

二階の出窓的なところに座って太陽をぼけーと浴びていると、窓のそばまで伸びたバラの枝にメジロがとまった。父が、ここ数年ほど庭でスズメを餌付けしており、朝夕にスズメが姦しくやってくる。そして、たまに大きな鳥、たとえばヒヨが来ると、父は追っ払おうとする。鷺はまだ来たことはないかもしれない。
知らないけれど。