2015/09/20

「すばらしく」はない

今年の春くらいから、不眠が悪化している。
試しに睡眠導入剤をもらってみても、起きれなくなったりでどうにもしようがなく、いつもこうして朝を待っている。

眠れないのは、ついついニュースを追ってしまうからだろうか。
昨夜遅くに安保法が可決された。
わたしは、究極的には護憲派だけれども、沖縄のような現状があるなかで「アメリカから独立する」ための手続きとして、立ちどまってしっかりと憲法に向き合うべき時は必ずあると思っている。
つまびらかに考えることは、正体不明の化け物に対する不安に打ち勝つことだし、その先に九条を守る手を新たに打つこともできる、と信じている。
ただし、それは圧倒的な理想を突き進む覚悟を持つことなんだけれど。
というか、そういった議論を尽くすのが、政治家の仕事ではないの。

海外の友人と話すとき、日本は本当には民主主義の国ではないんだろうなと思うことは多々ある。
必ずしも安定した国の人だけを目前にしているわけではない。
難しい状況をかかえて、自分の国に帰るビザを持たない人もいる。
それでも、日本にいるときに私が感じている抑圧を、彼らが理解できるとは思えない。
特にノルウェーという国を歩いたあとでは、なぜ、日本で(特に女性として)生きることはこうまでも複雑で、黙って飲み込むことを多く要求され、「男性性に由来するプライド」への気遣いに疲れ果ててしまわなければならないのかと考え込まずにいられない。
そして、多くの人は、その疲れさえ気づかないようにして一生懸命に他人を気遣って生きている。

ノルウェーは、必ずしも「すばらしく」はなかった。
けれども、人々は、自分一個分の人生を疑う必要なく生きている感じがした。
このことを、まだうまく言えないのだけれど。

「移民する本」は、わたし自身にとっては、休憩のような側面を持ってスタートした企画だった。
この企画をアートと呼ぶのは、やはり少し大げさにすぎるようにも感じる。
もっと単純に旅であり、長いドネーションの仕組みなのだと言うべきなのかもしれない。(移民と難民は混同してはならないが)
だがしかし、やっぱりそれだけでもないだろう。

オスロへの旅は、予感はしていたけれど、決して明るく華やいだ気持ちに満ちた時間ではなく、平等性や生きることの権利、女性の人生について考える時間だった。

それを持ち帰ったいま、ようやく「休憩」ではないほうの抽象的なアートにもういちど向かう気力を持っている。
けれど、その気力とは別にして、政府によってゲームの捨て駒のように扱われた「私」の人権が、かわいそうなのだ。
それが、夜明け前に見ているもの。
ゴミのように当然のこととして捨てられた人権が、ほんとうにかわいそうだ。









2015/09/07

冬を知らせる雨

やっと床上げした。
オスロでの2週間は、お天気に恵まれて、春の日のいちばんうつくしい瞬間を一日中味わっているような日が続いた。
ある日、少し肌寒くなり雨がざーっと降った。
わたしが顔を上げると、本屋のオーナーのひとりであるPilがこちらを見て少し笑って、冬がくるんだ。と言った、とかいうとまるで作り事のようだけれど本当に映画のような一瞬だった。

いつものことながら、どこかに馴染むのに苦労したことはなく、去るのにも苦労はない。
ただ、今回は2回の英語のプレゼンを終えて気が抜けたのか、最終日に風邪をひいてしまった。
それを悪化させながらの帰国となり、今朝まで眠り続けていた。

まだ部屋は帰国直後のわさわさした感じがある。
床上げしたつもりが、夜には腹痛で冷や汗をかくなど、日本にいるあいだの自分がなぜこうも痛みや咳や辛さで動けないのか情けなくなる。
データのチェックだとか制作だとかはあきらめて、ゆっくりと時間をかけていくしかない。

すこしづつ、オスロのこともなんということはないけれども、書いていこうとおもいます。

2015/06/14

美術のパフォーマンスには無い身体

先日、東京造形大学での4週間のワークショップと講評が終わり、その翌日、山縣太一さん作演出で大谷さんが主演の『海底で履く靴には紐がない』を見に行った。

講評の日に、久しぶりにHさんにお会いして様々なことをおしゃべりした。
そこでおしゃべりした事柄と、『海底で履く靴には紐がない』で見たものがつらーっと繋がっている、いま。

私はもともと『Line京急』のファンなので、山縣さんと大谷さんの組みあわせは待望の感があるのだけれど、そこに口をダラーッとさせた女優や、筋肉質な俳優の身体の移動が加わる様に居合わせていると、空間に音楽がひょっこり顔を出した。
大谷さんが作る音のなかでも、短めのラインのような状態が繰り返されるごとに変化していくときのあの感覚が、ひょっこりと。
そして、大谷さんの身体に重ねああわせて、当然のように山縣さんの身体が記憶から呼び覚まされて浮かび上がってくるのだけれど、その密な体が、美術のパフォーマンスには無い。
そのことを、以前はよく考えたものだったな、と思い出した。

2009年から2013年の自分の活動には、いくつかの挑戦があった。
その内のひとつの流れが科学を通した「形の変換」であり、そしてもうひとつが「身体がある」ということだった。
どちらかというと、「身体がある」のほうが先に、必然的な興味として自分の中に2007年に生まれた。
ある作品を劇場で発表する機会をいただいたときに、その2時間、劇場に言葉は溢れているのに身体が無いことに気がついたのが最初だった。
あの作品を、もしもギャラリーやオルタナティブなものであれアート的な空間で上演したならば、身体のおざなりには気づかなかったとおもう。

そこから、わたしは本当に様々な人の力を借りて進んで来たし、進もうとしてきたとおもう。
身体はあまりにも自分には難しいマテリアルでありインターフェースだったので、ダンサーや俳優や舞台にあがる人の力を借りるのが当然のように思われた。

そして、でもやっぱり「借りる」では中途半端にしかわからなかったのだろう、と今になっておもう。
答えの出ないことを誰かに相談したとしても、そこで得た回答は、結局は当座しのぎにしかならず、必ず後から落とし前をとらされるものだが、そういう感触が身体に向き合おうとしてしなかった経験の中にはある。


実のところ、2013年の夏以降、わたしは身体のことを考えないようにしてきた。
この2年の間、自分にはそれを考えることは許可されていないというか、真摯に身体にむきあっている人たちを前にして、語るどころか、考えることさえも憚るべきような気がしてならなかった。

なのだけれども、この数日の対話ですこし気力が風向きを変えた。
今年の夏に、ダンサーたちとの時間をヨーロッパで過ごすことになっている。
彼らの力を借りるのではなく、密な身体にわたし自身が向きあう楽しみが浮かび上がっている。いま。
そして、それは美術のなかに取り急ぎはあるだろうけれど、やがてもう一度、自由に挑戦してみようとおもう。



2015/06/06

THE COCKPIT

THE COCKPIT という映画をみた。
『THE COCKPIT』は、ヒップホップの一曲ができあがるまでを追った1時間程度の映画なんだけれど、なんだかとてもすきだった。
すきな理由はいくつもあげられるし、それは多くの人々が抱く感情や感想と大差ないので書かないでいいとおもう。

というのも、ちょっとすきながら、、、というかすきだからというか、見ながらいろいろに考えてしまったことがある。

まだ若い部類の男の人たちが数人あつまって、音を打ち込んだりリリックを書いたりしている。
わたしは、そういう現場がすきだ。
その現場に女子や女性がいたって、どうやったってうまく居れないことも知っている。そして、だからこそやっぱりすきなのだ。
というこの感覚は、オッサンが若い女の子に萌えているのとどう違うんだろうか?と考えてしまった。
違うといいたいし、違う面がある。

あるいは、このオトコノヒトタチが、いつ、他人の上に立つことにプライドの拠り所を見いだした大人の男性になっていくのか、ならないならどうなるのか、というようなことをついつい考えてしまう。
男性だけしか映らない映像のなかで、気持ちよく遊びにいそしむ彼らの保たれた均衡が、余計に不安をかき立て、彼らが永遠にその遊びにいそしんでくれないだろうか、などとふと、どうでもいい感情を抱く。

くだらねー、と言われるだろうか。
でも、30代が後半になったころから、日本で女性でいることは、はっきりと生きにくくなった。
それまでも難しかったが、それまでの生きづらさとは違う。
居ることそのものが難しくなった。
「発言を許可された女性」でいるための、いくつかの社会が無意識に持っているフレームから自分自身は外れてしまったのだろうと思わせることが増えていった。
フレームを外れたターニングポイントはいくつかあり、20代中盤の英語での生活で言葉が解放された時期と、30代中盤で研究職の女性たちの「発言する態度」に出会ったことだろうと思う。
英語圏や研究職に女性差別が無いといいたいのではない。
だけれども、私がそれまでに居たコミュニティーとは違っていた。

先日、少し年上の女性が「自分は若い頃に、天然っぽい雰囲気を醸し出して"わからないフリ"をしていた(のだと後から思った)。だが、環境を移動した時に自分の考えを隠すことなく言葉にしなければいけないことを知った。が、時を経てもう一度古い環境に戻ってみると、「言葉」も「考え」も許されておらず、居るためにはやはり若干の"わからないフリ"をしなければならなかった。」というようなことを言っていて、その発言はとても腑に落ちるところがあった。

ある世界で、人が子供っぽい態度を身につける理由は、無意識に身を守るためだ。
そのことには性差はないかもしれない。
だが、その人が大人の態度を身につけ始めたとたんに、「居る」というだけのことが、あまりにも周囲からは異質で不気味な感触を帯びるような現場が、日本の女性にはあるように思えてならない。

「フレームを外れたターニングポイント」には、実は書くに書けないようなポイントもある。
書くことができるポイントは、「オープンであること」をわたしが知らず知らずに身につけた、言って見ればまだしも個人的にはポジティブな転換である。
けれど、人生には「弱さ」を植え付けられるような時間もある。
最近の日本に「居ていい人間(女性)」というのは、強すぎず、そして表舞台からの光が届かないような輪郭の暗さを持たないもの、
この強弱のバランスの上に立つ、奇跡的な夢の像のことなのだろうと思う。

映画の話とあまり関係のない内容になってしまった。
『THE COCKPIT』は、まぁ、そんなこととはまったく無関係の内容であり、すばらしかった。
ただ、わたしの中にはそれらを介して他に連想をいだく理由があっただけのこと。







2015/04/26

ボリビアポスタービエンナーレ

先週だったか、来日中のEと骨董屋をため息をつきながら、ふたりで見てまわった。
そのあとで、うちでお酒を飲みながらいろいろな話をした。
Eは文字通り地球中を移動しつづけており、私は止まっている。
自由への概念も実感も異なる。
それでも、話がつきることはなく、リラックスしたよるがすぎていった。
そして、わたしたちのコラボの小さな一歩を約束して別れた。

そのあとから、私は今つくっている作品の「作り直し」に本格的にはいっていって、内心、いつまでこの作品に時間をかけるつもりなんだろうかと冷や汗をかかないわけでもない。
取材した量が多いからという理由でもなく、作っていると様々なことが想起されて扱うべきことがいくつもいくつも溢れかえるように湧いてでてくる。
あるいは、その想起の過程が実はやはり少し辛くもあって、その心の様を眺めてしまうのかもしれない。

そういえば、「形と暴力が私をパレードする」のポスターが、ボリビアのポスタービエンナーレに入選したのだそうだ。
"72カ国5812枚のエントリーの中から300枚のセレクト"だそう。
このポスターはすでに複数のデザインアワードで入賞や賞をいただいている。
すべてデザイナーの力だと思っている。




2015/02/02

移民・移行・移住

いま、私は「移民する本」という作品を連続で作っている。
内容も方法も、Vol.1と2ではまったく異なるのだけれど、「移民」というメタファーを頼りにして、拠り所の曖昧な存在の視点を対象としていることは一貫している。
もともと「移民」という語は欧米ではネガティブなイメージが強いので使わないほうがいいと忠告を受けていた。
その時にも、自分が「移民」という言葉の持つ事情をどこまで見つめることができるのかを考えた。
でも、これから無知な私の目の前に開示されるだろう複雑な事情に、ひとつづ、にじり寄る程度にしかイメージできなかった。
つまり、とてもじゃないけれど一気に包括的に、我が問題として引き受けるようなことは不可能だろうと思った。
ただ、当然だけれども、「ひとつひとつににじり寄る」というのは「多くの複雑な事情から目を背ける」と同じではない。
ひとつひとつ、どうにか向き合う。
どんな時にも、エキセントリックに短い興味を寄せて「社会問題」を扱うような、そんなアートなんて私はいらぬよ、と自分の手に対しては言い聞かせてきたし、どちらかというと、このテーマはごくごく個人的な経験から出発している。
ただ、多くの個人的な経験がそうであるように、わたしたちは小さな経験を通して、逃れがたい大きな世界の事情を見ることになる。
だからこそ、一回では成し遂げられない。

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この制作の最中にも、どんどんと移民という言葉をそれこそ楽観的にも、気楽にも日本にいてさえ使えなくなるような、(まるで「ヒットラー」とドイツにいる間は簡単には発せられないような雰囲気に似た)事態が世界で起こり続けている。
どのような方向から見ても、考えても、途方にくれてしまう状況に覆われはじめている。
911の後の雰囲気を思い出している。
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このプロジェクトがオープンする以前に、私は移民研究者やアーティスト、批評家と、それぞれに対話の機会を設けてもらった。
そういった経過を経て、「移民」よりも「移住、移行」という意味あいの強い"migrating" を英訳として使うことにしたのだが、日に日にもっと腰を据えて、このmigratingという言葉にさえ向き合わないといけないことを実感している。
同時に、それでも歯をくいしばるように「複雑な事情」に目を見張るばかりではなく、本質的な「移民」という現象がみせてくれる多様な側面にこそ、 心を寄せるようにして作りたいと思う。

なんだろ、ちょっと中途半端に四角四面な、ダサいほうの道徳的な文章になってしまったけれども、やっぱりこんなテキストを書くようなことも、作るなかでは起こるんだな。
そうなのかな、どうだろうか。




2015/01/17

みえない世界

新年があけておりまする。
とっくに。
年末からノンストップの忙しさに突入したまま、新年がどうのという心はまったくもてなかったのであけましておめでとうも言い忘れたままです。
広島、名古屋、京都と移動しつつ制作もしつつ、やっと東京に戻ってきた。
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作品を作っていく過程で、ひとつ 歩を進めるたびに、自分への問いが増える。
コンセプチュアルアートは、「現実」を扱うことをルールのようにしている 面があるのかもしれないが、その「現実を扱う」という規範のようなもののために、他者の生々しい権利を無視しても良い、というふうに自分を納得させていないだろうか?と一歩一歩のすべてで思っている。
おそらく、私が立ち止まっている「他者の生々しい権利」なんて、他者である当人も気にしない程度のものなのかもしれない。
でも、作るというのは、作り手だけが気づく「もわっとした見えなさ」への立ち止まりと対応の積み重ねなのだと思う。
「現実」を重ねていけばアートとしての強度が出るような場合でも、そこにいるのは無生物ではなくて生きている人間である以上、アートのためにやっていいことと悪いことの判断を立ち止まって考えたいと思う。

最近、国を超えて「表現の自由」が問題になる事例が続いている。
ある意味で「表現の自由」が成熟を迎えたと考えてみれば、ここのところの「表現の自由」の問題は、次の課題が見え始めた時期を告げているのかもしれないし、平和からやってくる感性の退化を顕在化させているだけなのかもしれない。
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ひとりのアーティストが亡くなった。
2010年にYCAMに滞在した時に、完成直前の作品を拝見してお話を聞かせていただいたことがある。
言葉の端々に、繊細に相手を思いやってくださる温かさがあった。
当時、こんなにダイナミックに物と社会と己をつないで作る作家に、私はなれそうにもないと感じたのを覚えている。
私には持ち得ない大きな大きな力を感じて、そのことを時折、思い出すことがあった。
女性だったからだろうか。
変な言い方だけれど、
あの頃ひとりぼっちで足元がふにゃふにゃした心もとない感覚で生きていた私にとって、アーティストとしてという以前の、人間の魅力に癒されたのだと思う。
なんだろう、大きかったなぁ。
メディアアートという「分野」なんて存在しないような立ち方をされていた。
そして、そういう真に越境した活動の仕方が、まだまだ珍しい分野でもある。
いつまでも尊敬していくんだろうな。

人が亡くなるたびに、そして自分の体も痛みに落ちこむたびに、
命は一枚のドアを隔てて見えたり見えなかったりする世界で生きているのかな、と思うことが多くなった。
そんな悲しみともつかない心持ちで今年は貴船に参ったので、家族と友人の平安を祈った。
貴船は雪でまっしろで、空気が冷たくて、いい気持ちだった。