2016/06/01
最後にオバマがやってきて...
5月は、次から次へと人に会っていた。
数年前までは、しょっちゅうミーティングをしては自分のプロジェクトを動かしていたはずなのに、今やたまにこうして「人と会うのが多い」日々があるだけで、けっこう体にくる。
からだがついていかなくなると、顔がむくむのも最近の変化というか、鍼灸の先生に言ったらきっと「あ、老化ですね」と即答されるのだろう。
先生は、「鍼灸は老化を遅くすることがコンセプトですから!」とすてきなことも言うが、"コンセプトということは..."と考え始める自分が残念ですね。
月初めにザグレブ出身、ベルリン在住のアートライターに会った。初対面だった。
次から次へとお互いの関心が繋がって語り合えるという稀有な経験をした夜だった。
お決まりの「どこの出身?」という質問に、「知らないかもしれないけど広島」と言うわたしに、「だれでも知ってるよ、ヒロシマは」「いやいや、世界には直近の問題がいくつもあるからね」「フクシマ?」「あなたの国だって複雑でしょう?」... と言う流れで、広島で私が受けた平和教育の話になった。
わたしが通っていたのは私立の学校だったから、わりと自由に教育プログラムを作ることができた(まだそういう時代だった:と言わねばならないのだろうと想像するけれど)のだと思う。社会科の先生の中には、在日韓国人の先生もいて、そういうことも影響していたのか、どの先生に教わったか記憶は定かではないものの「日本がアジアでおこなってきたこと」も教育された。虐殺や人体実験や差別の類である。
その一方で、毎年、被爆者の生々しい経験を聞くという授業が必ずあり、映画や本をみなければならず、時には取材してレポートを作るようなこともあった。
そして、この平和教育に一貫して流れているのが「原爆はアメリカ固有の罪ではない。戦争は人間の罪であり、どの国であっても起こりえたこと」という視点である。
わたしもこれに異論はない。
むしろ、そう語ることで、奇妙なことだけれど、加害者でもあり被害者でもある歴史に引き裂かれることから救われてきた一面があり、そしてだから、今ムカついている。
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多くの人と会った今月、その交流を通して、しばしば「自分の置かれたコンテクスト」について考えた。
過去の作品のプレゼン的なものがいくつかあり、学生の前で「社会の中で制作すること」を語る機会を与えてもらい、遠い国に離れた古い友人との再会があり、そして海外からのゲストがいくつかあった。
わたしが数年前まではっきりと目指していたのは、「コンテンポラリーアートのコンテクストを離れて、自分のコンテクストを作り上げる」ということだった。
なのだが、この理想追求はまったくもって、簡単じゃなかった。
(いまこそ、わたしはアラカワさんと話がしたいよ!なぜアラカワさんにはそれが可能になったんだろう?)
そもそも、コンテクストの生まれない場所で人は生きられるだろうか?
海外からの友人と話すとき、様々な都市のローカルなアートシーンの話をきかせてもらう。いわゆるビエンナーレなどに代表されるグローバルなアートではなく、その都市に許容されやすいアートの傾向について聞かせてもらう。
そんな酔っ払いおしゃべりの果てに、近頃友人たちとたどり着くのは、どのような形式の活動であれ、10年はその都市に居て、そこで発生しているコミュニティや文脈に足を支えられて、やっと考えを深めていけるという面はあった気がする、というものだ。
そして、やはりそのコミュニティで受け止められるアートの形式は、そこに居る自分と切っても切り離しがたい。
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そして、もやっとする。
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なぜ、わたしがこうまでも「文脈依存」に抵抗するのか?には理由がある。
戦争は人間の罪だと教えられる一方で、個人の罪だとは誰も言わなかった。
それは、あまりにもおそろしい事実だからだろうか。
子供心に、人類の罪なのは理解できたが、「でも・・・」と不思議だった。
実際に「原爆を落とす」を決めて実行する段階に居合わせた誰も、「これはあまりにもひどい。やめよう」とは、少なくとも死ぬ気で行動はしなかった。
実際に原爆が落とされるまでの経緯は複雑ではあるが、後世に生きるわたしから見れば、それが落とされるに値する絶対的な理由は決して多くはなくて、人体実験の側面が一番強いのだろうとおもう。
アメリカは戦後、広島の比治山にABCCを設置したが、そこで得られた治験が被爆者に還元されることは無く、後の放射能影響のための尺度を作っただけである。
なぜ、後のための尺度が必要か?
アメリカが見ていたのは当時の「目の前にいる被爆者」ではない。
未来に彼らが行うことだ。
第二次世界大戦について学ぶにつれ、わたしの関心は "大きな意図のなかで個人は決してひとりの意思を保てない"、に傾けられていった。
ヒットラーにせよ、日本軍にせよ、そしてアメリカが言うように世界平和のために原爆を落とした誰かにせよ。
もちろん、それは戦争に限った話ではない。
日常において、人は「誰か」を支配するために創意工夫をこらして個人の判断力を失わせ、そのためになのか、そのせいでなのか、より大きなコミュニティ/社会を操作する。
私はなにに絡め取られ、所属しているのだろう?
どうして、そのコンテクストから離れることができないのだろう?
あたらしい自由は、コンテクストからの自律ではないのか?
それが、多様な作品を作るなかでも変わらずに目指されている、わたし自身への問いだ。
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いつもより多めのゲストの「最後」にオバマ大統領がヒロシマに来た。
彼が謝罪しないことに対して、どうという想いも抱いていなかったのに、すこし違和感を感じ始めたのが来日前に報じられた塩野七生さんの"日本が謝罪を求めないのは大変に良い"という内容のインタビューだった。曰く、悪がしこい相手の上をいく逆転の発想なのだと。
そうかもしれない。
けれど、その逆転の発想を、ヒロシマの人たちはもう十分にやってきたのではないか。
被爆者が長年とってきた抗議はデモではなく、座り込みというとても静かな態度だ。
おそらく、その静寂の影には、被爆者として生きるなかで受けてきた差別に由来する部分もあるのではないか、と想像してみる。
今回、被爆者の方々のなかには、"謝罪を求めれば、核兵器廃絶が遠のく"ことを懸念して、謝罪を求めない方向に舵を切ったという話も報道されていた。
いつまで、彼らは人類のためを思って、相手の上をいく交渉をし続けなければならないのだろう?
塩野さんの言うように相手は悪がしこいが、正直なところ謝罪を求めても求めなくても、大差ない気がする。
なにしろ、国としての日本はどうあったって動かない。
(日本政府は、唯一の被爆国でありながら核廃絶の合法化に対して消極的である)
そして、それこそアメリカ大統領は個人ではないのだから、そうそう感情的に動かされたりしない。
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オバマ大統領は来ないよりは来たほうがいい。
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ザグレブのアートライターに平和教育やアジア侵略の話をしていくなかで、アメリカの誰からも謝罪が欲しいと思ったことはないとわたしが言うと、不思議そうな顔をしていた。
そこで、ふっと、もやもやしていた想いを口にしてみた。
「でも、それはわたしがそのように教育されたからかもしれない。なにが、国家の意図であり、なにが隠され、教育されたことなのかはわからないものね」
そう語りあったのは、塩野さんのインタビューが出る数週間前の話であり、実際にオバマが来ることが確定したよりも前のことだった。
被爆3世ではあるが、それでも当事者ではないわたしは、ある意味ではオバマと大差はない。
彼もわたしも、誰かの経験を歴史の一部として学び、だがしかし、それを知らないとは言えない立場にある。
そのような立場のもとで、ヒロシマでスピーチする人は市長であれ市民であれ、そして大統領であれ、まるで悪が空から降ってきたかのように、その日のことを語るしかない。
けれども、なぜあのスピーチを賞賛する必要があるだろう?
広島=戦争で荒らされた土地には普通の生活も息づくが、それを加害者が声をあげて寿いでどうするよ。
「謝罪しない」は、政治的に受け取るしかないものではあるが、被害者が讃えるようなことではない、黙してでも抗議するところだ。
その抗議は、実際に被害にあった人と、後を生きる、加害者にもなり被害者にもなる人々のためにする抗議だから。
「被爆者の経験談」、こうして文字にしても多くの人はうまく想像できないだろう。
それは、生きている人が一瞬にして肌を垂れ下がらかして咆哮し、やがて差別にさらされる話であり、
痛ましく特異的なのは「人体実験」だったという点であり、たかだが70年前の「同時代」の話なのだ。
まだ歴史になる途上に「今」は関わっている。常に。
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