2016/12/14

Starman

朝の早い時間は、色を使う作業をする。
最近は、Pablo casals を聴いていることが多い。
それから、週の何日かは家を出て映像編集に行く。
歩きながら、ボウイのStarman を聴いている。

子供のころ、路上で嫌なことがよくあった。
その多くのシーンのなかでは、泣いても叫んでも誰も助けにこなかった。
不思議だと思っていた。
道を一本でも違えれば人がいて、道なりに家々があって、その中にはきっと誰かが住んでいる。けれど、誰も出てこない。
まるで、わたしの存在が見えているのは空から私を見下ろす嫌なものだけで、そいつがどこにいってもわたしを発見するのだろうか、それ以外の人にわたしは居ないみたいだ、と叫びながら、頭が冷えていく。
あとからその視線が蘇るたびに、狂いそうな辱めを感じる。

昨夜から、ネットに接続すれば、アレッポの人々の「最後のメッセージ」が流れていた。
わたしは、彼らを、まるで天からミニチュアを見下ろすもののようにしてつまみ出してあげたいのに、ただバスに乗って音楽を聴いている。
声が見えているのに、わたしはつまみ出してあげられない。
あるいは、つまみ出さない。
わたしがつまみださなかった、「だから」というだけでは無いにしたって、彼らは本当に死んでしまったのだろうか。




2016/09/24

7月に、横浜のblanClassで公開制作をやった。
大きな作品のごくごく小さな一部分を探って作って、最終日に見せたのはそのなかでもエンターテイメントな要素のあるパートにすぎない。
目の前にはいつもマチコさんがいて、「美雪さんの質問は自分のことがわかるからやだー」と言っている。わたしは「なぜ?」しか重ねていないのに。

私は決まりごとを練習する稽古はこっぱずかしくて苦手で、ルートを決めるためのうだうだしたことを稽古といっている風がある。
だから、一応の「本番」まではウジウジしてて、でも「本番」になれば驚くほど解放されていて、私でもない誰かが語っている。
あの人は誰なのかわからないが、すごく完全な自由を謳歌していて、あの時間だけが本当に生きている感触がするのにもかかわらず、あれは「私」という実感が訪れない。
何年このようなことをやっていても、いまだに、はるか彼方から他には無い自由を弾いている女を見ている。

その一方で、この10日ばかりはひきこもって「Emblem」のプロットタイプを追い込んでいる。
ひたすらひたすら黙々と作業したり眠ったりしていて、誰にも会いたくないし誰とも話すことなんかないし、どこにも自由がなくてただひたすら「固まっていく」。のにもかかわらず、この地味で静かな何も語らない、あるいは透き通って透き通って消えていく私が「私」なのですと、体の地面からふつふつと支えくるものがある。

世界中の目や手や唇から隠れてしまいたい。
あなたのしあわせにもふしあわせにも関わっていない、
暴力の無い透き通る行為が描くことのなかから立ち上がってくる。
けれども、やはりこれが終われば、またあの誰ともしれない女が立って語っているのを見に行きたい。

2016/06/01

最後にオバマがやってきて...


5月は、次から次へと人に会っていた。
数年前までは、しょっちゅうミーティングをしては自分のプロジェクトを動かしていたはずなのに、今やたまにこうして「人と会うのが多い」日々があるだけで、けっこう体にくる。
からだがついていかなくなると、顔がむくむのも最近の変化というか、鍼灸の先生に言ったらきっと「あ、老化ですね」と即答されるのだろう。
先生は、「鍼灸は老化を遅くすることがコンセプトですから!」とすてきなことも言うが、"コンセプトということは..."と考え始める自分が残念ですね。

月初めにザグレブ出身、ベルリン在住のアートライターに会った。初対面だった。
次から次へとお互いの関心が繋がって語り合えるという稀有な経験をした夜だった。
お決まりの「どこの出身?」という質問に、「知らないかもしれないけど広島」と言うわたしに、「だれでも知ってるよ、ヒロシマは」「いやいや、世界には直近の問題がいくつもあるからね」「フクシマ?」「あなたの国だって複雑でしょう?」... と言う流れで、広島で私が受けた平和教育の話になった。
わたしが通っていたのは私立の学校だったから、わりと自由に教育プログラムを作ることができた(まだそういう時代だった:と言わねばならないのだろうと想像するけれど)のだと思う。社会科の先生の中には、在日韓国人の先生もいて、そういうことも影響していたのか、どの先生に教わったか記憶は定かではないものの「日本がアジアでおこなってきたこと」も教育された。虐殺や人体実験や差別の類である。
その一方で、毎年、被爆者の生々しい経験を聞くという授業が必ずあり、映画や本をみなければならず、時には取材してレポートを作るようなこともあった。
そして、この平和教育に一貫して流れているのが「原爆はアメリカ固有の罪ではない。戦争は人間の罪であり、どの国であっても起こりえたこと」という視点である。
わたしもこれに異論はない。
むしろ、そう語ることで、奇妙なことだけれど、加害者でもあり被害者でもある歴史に引き裂かれることから救われてきた一面があり、そしてだから、今ムカついている。

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多くの人と会った今月、その交流を通して、しばしば「自分の置かれたコンテクスト」について考えた。
過去の作品のプレゼン的なものがいくつかあり、学生の前で「社会の中で制作すること」を語る機会を与えてもらい、遠い国に離れた古い友人との再会があり、そして海外からのゲストがいくつかあった。

わたしが数年前まではっきりと目指していたのは、「コンテンポラリーアートのコンテクストを離れて、自分のコンテクストを作り上げる」ということだった。
なのだが、この理想追求はまったくもって、簡単じゃなかった。
(いまこそ、わたしはアラカワさんと話がしたいよ!なぜアラカワさんにはそれが可能になったんだろう?)

そもそも、コンテクストの生まれない場所で人は生きられるだろうか?

海外からの友人と話すとき、様々な都市のローカルなアートシーンの話をきかせてもらう。いわゆるビエンナーレなどに代表されるグローバルなアートではなく、その都市に許容されやすいアートの傾向について聞かせてもらう。
そんな酔っ払いおしゃべりの果てに、近頃友人たちとたどり着くのは、どのような形式の活動であれ、10年はその都市に居て、そこで発生しているコミュニティや文脈に足を支えられて、やっと考えを深めていけるという面はあった気がする、というものだ。
そして、やはりそのコミュニティで受け止められるアートの形式は、そこに居る自分と切っても切り離しがたい。

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そして、もやっとする。

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なぜ、わたしがこうまでも「文脈依存」に抵抗するのか?には理由がある。

戦争は人間の罪だと教えられる一方で、個人の罪だとは誰も言わなかった。
それは、あまりにもおそろしい事実だからだろうか。
子供心に、人類の罪なのは理解できたが、「でも・・・」と不思議だった。
実際に「原爆を落とす」を決めて実行する段階に居合わせた誰も、「これはあまりにもひどい。やめよう」とは、少なくとも死ぬ気で行動はしなかった。
実際に原爆が落とされるまでの経緯は複雑ではあるが、後世に生きるわたしから見れば、それが落とされるに値する絶対的な理由は決して多くはなくて、人体実験の側面が一番強いのだろうとおもう。
アメリカは戦後、広島の比治山にABCCを設置したが、そこで得られた治験が被爆者に還元されることは無く、後の放射能影響のための尺度を作っただけである。
なぜ、後のための尺度が必要か?
アメリカが見ていたのは当時の「目の前にいる被爆者」ではない。
未来に彼らが行うことだ。

第二次世界大戦について学ぶにつれ、わたしの関心は "大きな意図のなかで個人は決してひとりの意思を保てない"、に傾けられていった。
ヒットラーにせよ、日本軍にせよ、そしてアメリカが言うように世界平和のために原爆を落とした誰かにせよ。
もちろん、それは戦争に限った話ではない。
日常において、人は「誰か」を支配するために創意工夫をこらして個人の判断力を失わせ、そのためになのか、そのせいでなのか、より大きなコミュニティ/社会を操作する。

私はなにに絡め取られ、所属しているのだろう?
どうして、そのコンテクストから離れることができないのだろう?
あたらしい自由は、コンテクストからの自律ではないのか?
それが、多様な作品を作るなかでも変わらずに目指されている、わたし自身への問いだ。
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いつもより多めのゲストの「最後」にオバマ大統領がヒロシマに来た。
彼が謝罪しないことに対して、どうという想いも抱いていなかったのに、すこし違和感を感じ始めたのが来日前に報じられた塩野七生さんの"日本が謝罪を求めないのは大変に良い"という内容のインタビューだった。曰く、悪がしこい相手の上をいく逆転の発想なのだと。
そうかもしれない。
けれど、その逆転の発想を、ヒロシマの人たちはもう十分にやってきたのではないか。
被爆者が長年とってきた抗議はデモではなく、座り込みというとても静かな態度だ。
おそらく、その静寂の影には、被爆者として生きるなかで受けてきた差別に由来する部分もあるのではないか、と想像してみる。
今回、被爆者の方々のなかには、"謝罪を求めれば、核兵器廃絶が遠のく"ことを懸念して、謝罪を求めない方向に舵を切ったという話も報道されていた。
いつまで、彼らは人類のためを思って、相手の上をいく交渉をし続けなければならないのだろう? 
塩野さんの言うように相手は悪がしこいが、正直なところ謝罪を求めても求めなくても、大差ない気がする。
なにしろ、国としての日本はどうあったって動かない。
(日本政府は、唯一の被爆国でありながら核廃絶の合法化に対して消極的である)
そして、それこそアメリカ大統領は個人ではないのだから、そうそう感情的に動かされたりしない。

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オバマ大統領は来ないよりは来たほうがいい。
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ザグレブのアートライターに平和教育やアジア侵略の話をしていくなかで、アメリカの誰からも謝罪が欲しいと思ったことはないとわたしが言うと、不思議そうな顔をしていた。
そこで、ふっと、もやもやしていた想いを口にしてみた。
「でも、それはわたしがそのように教育されたからかもしれない。なにが、国家の意図であり、なにが隠され、教育されたことなのかはわからないものね」

そう語りあったのは、塩野さんのインタビューが出る数週間前の話であり、実際にオバマが来ることが確定したよりも前のことだった。

被爆3世ではあるが、それでも当事者ではないわたしは、ある意味ではオバマと大差はない。
彼もわたしも、誰かの経験を歴史の一部として学び、だがしかし、それを知らないとは言えない立場にある。
そのような立場のもとで、ヒロシマでスピーチする人は市長であれ市民であれ、そして大統領であれ、まるで悪が空から降ってきたかのように、その日のことを語るしかない。

けれども、なぜあのスピーチを賞賛する必要があるだろう?
広島=戦争で荒らされた土地には普通の生活も息づくが、それを加害者が声をあげて寿いでどうするよ。
「謝罪しない」は、政治的に受け取るしかないものではあるが、被害者が讃えるようなことではない、黙してでも抗議するところだ。
その抗議は、実際に被害にあった人と、後を生きる、加害者にもなり被害者にもなる人々のためにする抗議だから。


「被爆者の経験談」、こうして文字にしても多くの人はうまく想像できないだろう。
それは、生きている人が一瞬にして肌を垂れ下がらかして咆哮し、やがて差別にさらされる話であり、
痛ましく特異的なのは「人体実験」だったという点であり、たかだが70年前の「同時代」の話なのだ。
まだ歴史になる途上に「今」は関わっている。常に。








2016/05/26

[学校が編んでいる(仮)|公開制作とワークショップ]

7/16-18 @blanClass


「正規のメンバーではない私」がここで生き残ろうとしている。その時に編み上げられる心の構造を見る。ワークショップでは、インタビュー・ショウの手法を通して、語りが物語に固められる過程の言葉から逃げたり構築したりする予定。
ゲスト:松田弘子(俳優)


日程:2016年7月16日(土)ー18日(月・祝)
16日(土)18:30-20:30 ワークショップ1[ルートから逃げながら道を作る]
17日(日)18:30-20:30 ワークショップ2[過去が要請する手順と戦う]
ワークショップ:1回 1,500円/2回 2,500円(要予約)
18日(月・祝)13:00〜 公開制作(入退場可)18:00-20:00頃 公開通し稽古+フィードバックパーティー
公開制作:日中の見学のみ 500円/公開通し稽古+フィードバック1,800円(ワンドリンク+α)
予約方法
以下の内容をイベント前日までにメールにて送信してください。こちらからの返信を
持って予約完了とさせていただきます。当日の場合でも準備がありますのでご予約
をお願いします。なお定員に達した場合などお断りすることもございますので、あら
かじめご了承ください。
〈メールアドレス〉info@blanclass.com
〈件名〉イベント名
〈本文〉1)日にち 2)氏名 3)住所 4)メールアドレス 5)参加人数

2016/05/08

遠くへ公開する


なるべく、縁の遠いものを助けるようでありたい

そう、おもわず口にしたのは今年の4月中旬のことだった。

向かいには劇作家というのか脚本家というのか、ひとりの人が座っていて、わたしたちは東京都現代美術館の『キセイノセイキ』を見た帰りだった。誰か美術畑では無い人といってみようと思い立ち、ちょこちょこ顔を合わせたりはするもののゆっくりお話する機会のなかった人をお誘いした。

一年くらい前のある集まりだ。

わたしたちは有名な海外のダンス記録を映像で見て感想を言う場に居合わせた。
彼女はその有名なダンサーの動きを、「江頭みたいだと思った」的に言い表してしいて、うふふふと笑っていて、あんまりにもうれしそうで、わたしは爆笑してしまった、その前から作品は見ていてすきだった、でも、この江頭発言がハンコを押すようにしてわたしは彼女と話してみたいなと思ったんだとおもう。わたしは江頭をよくしらないのに、でも記憶のどこかにあるぐにゃぐにゃした動きは瞬時にYoutubeで今見ている超有名なコンテンポラリーダンスと結びついて、爆発的に笑っちゃった。

--

1.
自分から誘ったくせに、わたしは『キセイノセイキ』のことをほとんど理解していなかった。(本当に悪い癖だとは思うものの、前情報をチェックすることをあまりしない上に、文字から入った情報を勘違いすることが多くて、告白すると「キセキノセイキ」だと思っていた。)
そんなだったから、行ってみたら想像していた以上にハードな内容に慌てつつも充実していておもしろく観入り、同時にふと政治色の濃い展示に誘ってよかったのかな?と気になって聞いてみると、一緒に行った人はおもしろがってくれていた。

ただ、ところどころなんだか薄ぼんやりとした作品があった。

その理由を知ったのは、展示を見て日が過ぎてからのことで、途端にTLやMLに『キセイノセイキ』が美術館からの規制にあっているという、わたしなんかは油断すると仕込んだネタなんだろうとスルーしてしまいかねない事実が断片的に、だが、堰をきったように流れてくるようになった。本当はもっと前から流れていたのに、気づかなかっただけなのかもしれない。

事情はわかりにくい。


というのも、ネット上に流れてくる口調からすると、この問題は、どうやらすでにどこかでは共有されていたような節が感じられるのに、ほんの少し外れたところにいる人間には、「ところどころなんだか薄ぼんやりとした作品があった。」という地点から出る契機となり得るだけの情報が「一発」ではやってこなかったからかもしれない。


そして、おそらく「一発ではやってこなかった」裏にこそ「事情」があるのだろう。

そして、「一発ではやってこなかった」が、わたしは少なくとも『スタジオ設立30周年記念 ピクサー展』を見たついでに、たまたま『キセイノセイキ』を見ることになった来場者よりは、情報を得ている。
この、現場の鑑賞者に情報が隠されている状況が、どこまで誰によって意図された結果なのかはわからないものの、一連の出来事のなかでも、わたしはとりわけゾワっとする。
隠す側があり、隠された側がある、いずれの視点からも「身内の外にいる鑑賞者」の存在が見えずらいのはなぜなんだろう?
「現代美術」は文脈依存が強いが故に、外部の人にはわかりにくいと言われる。
それが悪いことばかりだとはわたしは思わないのだけれど、同時に「外と共にある」こともまた、同じように「現代美術」と呼ばれるジャンルが意識的に内外へと提示し続けてきた問いだ。
それでもなお、「身内」の外につながることには、こうして言葉で述べる以上の複雑な手続きが必要なんだろうことが今回の件を通して見えてくる気がする。


現在において、わたしが『ピクサー展』の来場者よりも「事情」を把握できているのは、関係者をSNSでフォローしていることと、この春からアーティスツ・ギルド(AG)のメンバーになったために、AGのMLが流れてくるという理由以外には無い。
メンバーになったけれど、オープニングに行かなかったから事情を知るのが遅れた、とも言える。
アーティスツ・ギルドは、『キセイノセイキ』の企画組織である。
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AGのメンバーになったのは、ひとことで言えば「ご縁」です。

正直なところ、組織的な繋がりに「所属する」ことに対しては、わずかに逡巡した。
別に、何かに所属することをNGとするほどの主張があるわけではないのだけれど、どうにもなんとなく不安になる、という性癖を持っているらしい。
それでも、「ご縁」に与えられた繋がりを覗いてみようと決めたのには、30代後半になって、「アーティストにとってのセーフティーネットとは何か?」という問いと、社会的な後ろ盾を持たずに自由でいることの一面に含まれている「危険」の深刻さに直面した時期があったからだ。

わたしは、AGが政治的な思想や態度を同一にするものではないことを確認し、この繋がりに加えられることになった。

機材共有を掲げたAGが「セーフティネット」だとは決して言わないが、
「アーティストの連帯」が何を指すのか、どういった理由でそれへの言及が世界的に広がっているのか?私もまた、至るべきして興味を持つに至り、考えるためにここに参加する。

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2.
この春は他にも自らの肩書き的な変更が同時にいくつか起こり、所属することとセーフティネットの関係にそこはかとなく思いを馳せることがよくあった。
そんな時期だったからと言うとこじつけすぎだけれどまったく無縁でもない気分のなかで、数件のアート関係の支援をした。
そのうちの一件は、ニューヨーク在住の女性キュレイターが地下鉄で暴漢に襲われ、命はあるものの顔の整形手術を受けなければならなくなった、その費用は保険ではまかなえる額ではないので支援を募るというもので、キュレイターの友人たちが立ち上げたファウンドだ。
もう一件は、直接の交流は記憶に無いものの、わたしと同じ大学の一学年上に在籍していた女性、谷口緑猫さんの個展『ヒヤシンスと少年:谷口緑猫の軌跡』だ。
こちらも、彼女の友人たちが、その人の 死をきかっけにたちあげた運営組織による。


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なぜだろう、見知らぬその死を聞いたとき「どうして彼女は死に、自分は生きているのか?」という想いが知らず知らずのうちに止めようもなく湧き上がってきた。


「彼女が死んだ」
この死はまるで自分自身が死の淵にたっていた時間の証のようだった。
こころに近い死であり、でも知らない命だ。

彼女もそれを感じたかどうかは知らないけれど、
ふとしたきっかけで「周囲」が消えたわたしの30代後半の頃に時計の針を重ねるようにして、彼女は死んだ。

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「あともう少しだった」

そう誰かが振り返ってつぶやいたとして、この「あともう少し」が指し示している到着地点が生なのか死なのか、それは未来からしか言えない、そんな「あともう少しだった」ポイントを経て誰かは死に、誰かは生き延び、あちこちの関係者のなかに掛け替えのなさが駆け巡っている。

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アートに業界というものがあるならば、それは人と人の縁による繋がりだけであってほしくない。

アーティストの人生は、社会保障の枠外にあり、人との縁によって守られて進むようなところがあることを、わたしも知っているし、恩恵をいつも受けてきたし、闇雲にこの隠されたシステムを否定することはしない。
けれど、年を経ることで切実さを増した想いがある。
縁の遠いものも助ける生き方をしたい。
あるいは、縁の外にも複数の足場を築いておかなければならない。

人と人の繋がりがセーフティネットなのは言うまでもないことだけれど、

でも、それでは間に合わない出来事が人生には起こる。
血縁が最初から与えらえない人生もある。
縁を紡ぎにくい精神を抱える人もある。
また、時にはまったくの他人や制度だけが引き上げられる闇もある。
縁にしか接着力がない世界は危険であり、そこには社会はない。
どのような魅力を放たない人生も、すべからく守られる契機を与えられるという理想が、社会が目覚めてきた進化の一側面であり、アートがその戦いを支えた日もあるだろう。
それは、表現の自由の系譜でもある。
様々な運動や思想に、個人的な経験はパンチをくらわせては進ませてきた。
繰り返すなら、アートの歴史は、縁によって支えられもするが、縁の選定を否定する。市民の選定を否定する。
いや、選定は起こる。
だから、わたしたちはそのプロセスと迷いと思い込みと不和と終わらない言い争いを公開する。

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縁の遠いものを助ける。

縁の遠いものに助けられる。
そんな乾いた豊かさを体にまとわりつかせて、この先を生きていきたい。
「あともう少しだった」
あのポイントの後の日々が、重ねられている。
あのポイントに立った二人の女性と、その周辺で動いた人は、わたしなのだ。
わたしの親で、わたしの友達で、見知らぬ遠い人だ。

死が、遠い命のなかでメタモルフォーゼしてくれるのを、わたしは過去から見ている。

親や友や業界を包み込む、やがて愛に似るものを彼方から託されている。


わたしは、「なるべく、縁の遠いものを助けるようでありたいと思ってて」と、4月中旬のある日にひとりの女性に語りかけた、その言葉は不意に出たものだけれど、彼女や彼女の作品を知らなければでなかった、不意にどこからか何が主体なのかも不明の信頼が投げ出された。





2016/01/31

私と異なるものが、自由を与えている

美術展のオープニング・レセプションに顔を出さなくなって久しい。
特に行かないと決めたわけではなかったけれど、静かに作品だけを見たいというのもあって、人混みを避ける気持ちが強くなっていったのだろうし、
自分の活動基盤としての意味も含めて、興味のあるほうへ動いていたらすっかりギャラリーや美術館から足が遠のいていたという時期が随分と長くあった。

それでも、近年、再び展示という形式のもつ豊かさ、特に観客に開かれている仕組みに懐かしさと新鮮な気持ちを呼び覚まされている。
劇場は体を時間に固定しがちだが、確かに展示会場にはそれが少ない。

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数日前に、友人のMatthew Monahan が参加している『村上隆のスーパーフラット・コレクション』展のオープニングレセプションがあり、珍しく参加してきた。
横浜美術館には何度も通っているのに、初めてあの建築がいかに大きかったのかを実感させられた夜だった。
強烈なヴォリュームの物量と、おそらく「コレクション」として、他に類を見ることは簡単にできないであろうことが一目瞭然の守備範囲の広さが、建築それ自体を内側から否応なく押し広げるようだった。
友人とここってこんな広かったんだねーと顔を見合わせたのだが、展示によって、本来あるべきように、ひとつのまとまりのある空間として建築が見えてきたのが印象深い。
写真では見聞きしていても実物をみたことがなかった作品が多くあり、縄文から現代までに生き残ってきた「人工物」の数々を目の前にして、やはり呆然とするしかない。

そんななかに、Matthewの彫刻が数体展示されている。
少し話が飛ぶが、過去8年にわたって、私は美術大学の非常勤講師という仕事を務めさせてもらった。
その過程で、いつも心のどこかにあり、たびたび頭をかすめたのは、目の前の学生の中にもMatthew MonahanやLara Schnitger がいるはずだということだった。
彼らは私の古い友人であり、私が近寄ろうともしてこなかった純然たる巨大なギャラリーシステムの中で生きているアーティストたちであり、けれども、ここで最も重要なこととして言ってみたいのは、私が自分の領域と感じて育んできたアートとは違って、彼らはマテリアルと格闘しながら手に取れる「物」を作り出しているということ、そしてその「物」のなかには、プリミティブな、あるいは個人的な手つきと美術が培ってきた眼差しが同居しているという点だ。
私は油断すると「物質」からも「美術」からも心を離してしまいがちだが、彼らの作品を見て語り合うたびに、「物」を通してアートがあることの面白さをいつも思い出してきた。
そして、この、自分が作る作品との異なりをとても大切に感じる。

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アーティスト、おそらく美術家は本来多様な立場や手段に開かれている活動家である。(と、願いたい)
どのようなマテリアルやメディアでも、コンセプチュアルであってもポリティカルであっても私的であっても、ポップであっても抽象であっても、物語性であっても世界の仕組みのダイナミズムであっても、先人たちが積み上げてきた美術固有の問題に根ざしていても、それらの問題から離れようとしていても、
いずれにしても、アーティストは自分の手に、とても繊細なあなた自身と、アートが外の社会とブリッジを繰り返すことによって培ってきた「文脈」という、時に厄介な複雑さを同居させていいという確信を、学生たちの心のなかに小さくとも持って欲しいと考えてきた。

なぜなら、日本の美術大学の教育環境は、どうしても教える一人の人格に収まった手段や方法に依存しがちで、よほど注意して多様な教師を揃えない限り、なかなか「教師個人が影響を受けた時代のムーブメント」のようなものから眼差しが離れにくいように思う。
(そのことはもちろん、こんなことを書いている私こそが、小さく閉じた場所に立っていることを思い出させる。)
その結果、時に「あなた自身にしか由来しない問題」を、若い人が知らず知らずに自分自身に禁じてしまうような、教えてくれる人へ向かった勤勉さを身につけかねないような危険を感じて怖くなる。当然ながら、彼らだって制作を重ねるなかで、そういった呪縛からは解かれていくに違いないにしたって。
私塾であれば、それでいいだろう。
けれど、大学は私塾ではない。と思う。
時々本当にわかんなくはなる。

そして、学生は年間約200万円もの大金を支払っている。このことが私にはどうしても無視できなかった。

毎年、一ヶ月間だけとはいえ、20人前後の学生を目の前にして偉そうに立つことは、とても気恥ずかしく窮屈なことでもあったけれど、私には200万円の一部分が回り回って使われているのだから、オファーされた仕事としてできることはなんだろうか?と考え続けた8年間でもあった。(それはまぁ、どうやって出演料を捻出しながら公演を打てるだろうか?という、非常に大衆のお財布と密接に繋がった活動に、私自身が没頭した時期と重なった8年でもあるかからかもしれない。)
だから仕事として、
私は、過去から現在にわたるまでの多くのアーティストが開いてきた手段や立場の多様性を前提として、例え河村美雪個人にはわからなかったとしても、あなたにはあなた固有のメディアや問題が発見される可能性があり、それに向かいあうことが圧倒的に許可されていることを伝える、少なくとも伝えるチャンスを逃さないようにすることを、どうにかして大事にしたかった。
なので、時々、それはあなたが本当に触りたい問題なのかどうかを聞き続けることになり、かえって混乱を生じさせたかもしれない。

目の前には、私とは異なるタイプの可能性をもった一人一人がいるだろうことを思い、どうやったらそれを潰さない自分でいられるだろうか?と自分の言葉を頼りなく思うこともたびたびあった。
その不安から私を誘導してくれたのが、MattやLaraの作品に、そういった「物」を作らない私自身が複雑でぶっとい在り方を目撃して喜んでいるという実感だったように思う。
自分とは異なる手段や立場や活動がある。
だから素晴らしいのではないが、そのことが同時代を生きる"私たち"であることに、自由を植え付けてくれる。

そして、8年の間に何度も訪れた別の「目撃」についても書いておきたい。

学生とはいえ、彼らはアーティストであり、授業の時も卒業後もたくさんの、私には無いおもしろいものを見せてくれる。
その目撃は、なんて本当にすてきでありがたいことでしょう。何しろ、その時「先生」が消えて、わたしも、いつも通りにたったひとりで心細いままに立っていられるようになる。

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村上隆のスーパーフラット・コレクション』に戻る。
朝まで続くパーティのなかで、私たちは最終的に16年前と同じようにアホみたく踊って笑っていた。あとから、あそこで撮影された写真だけは公開されないことを祈ろうと苦笑し合ったが、実のところ、ああいう時のダンスは下手くそで最高に狂ってて、なにしろキュートだ。
オープニングレセプションとはなんだろう?
その夜の中では、多くのアーティストに会い、敬意を抱えたり、自身に絶望したり、呆れたり、嬉しくなったり、そして誰かの成したことを祝祭して、ただただパーッと派手に散らす。
特に、今回の展示を見た後では、ケチケチせずに太く生きることを心が求めずにいられない。たとえその火がすぐに消え去ってしまうとしても、今回は、なんだかあそこにあった強さを覚えていたいと思った。