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記憶を数日ほど失っていたような目覚めである。
体の不思議だ。
女性は、様々なホルモンによって周期的に身体がぼわっとしたりしなかったりするし、最近では低気圧の影響で、目が見えにくくなるとか頭痛が酷くなるとか、周りでもよく耳にする。
わたしは、そうやって何かの影響で知覚が重くなっていく時の移り変わりにはあまり自覚的にはなれなくて、あるとき、さーっと靄が晴れてやっと、あ、さっきまで(何日も)見えてなかったし、聞こえてなかったんだ、と気づく。
暑さ寒さの盛りには、台所に立つのが億劫になる。
7月の制作集中の「いい加減食」を切り替えようと、昨日から、またちゃんと料理するようになったのだが、外から疲れて帰ってドアを開けた家が熱気でもわっとしているなかでは、もう本当に心の底から台所なんて立ちたくないし、アイスだけ食べられたらそれでいいような状態になる。
うちは台所が狭いので、普段から何をどの順番で作るか?という手順が重要なのだけれど、それに加えて夏は食中毒に注意するために、肉や魚の処理を最後にしたいし、最後に出来なければ(そうしようと思ったら3時間は作業せねばなるまい)、しょっちゅう熱湯で器具を洗い流しながらあれこれを調理せねばならなくて、心底憂鬱になり、出来上がった時にはますます食欲なんか消え去っていて、ただぐったり疲れている、というのがこの二日のことだ。
なので、作っても食べず、翌日の朝か昼に食べている。
そのようにして、weckの本に載っていた「鶏のレモン蒸し」をアレンジして三瓶つくった。
レモンを6月に仕込んだ「塩レモン」に変えて、ワインはアレルギーなので日本酒にして、レモンバームやカルダモンやタイムやローズマリーなどのハーブを数種類と実山椒、レッドペッパーを散らして蒸した。
一瓶を食べてみたら、おいしかった。
とっても。
こういうのは、その時々のハーブの組み合わせだから二度と同じのは出来ない。
塩レモン、優秀だ。
わたしは、わたしの作る料理がすきだ。
でも、他人にもおいしいのかどうかというと、実際のところ、よくわからない。
ハーブやスパイスが効いたこの味を、実家の父や兄なんかは絶対に嫌いだ。
そう思うと、暑いわ寒いわのなかで一年中、文句言い放題の全員の好みに合わせて調理をする「家族の中の料理人」にはますます敬意を感じるしかなく、そういう想いにかられる時にはもちろん母のことを心にイメージするのだけれど、
でも、調理している時にはなぜか祖母の姿が浮かび上がる。
祖母は、年をとってから後の長い時間を一人で暮らした。
2
と、ここまで書いたところで友人から電話があり、いろいろおしゃべりしたら、
とりついていた疲れが吹き飛んだ。
不思議なことにB&Bでの一夜は評判が悪くなく、足を運んでくださった人々から感想をいただいている。
他のイベントとの違いは自分ではよくわからないのだけれど友人はさすがで、様々な視点で何が客席に起こっていたかを教えてくれた。
今回、拘ったことがある。
根拠の弱いこと、論理の通っていない考えを、語ることをする。
そして、曖昧ならば曖昧なところをスタートに語り、曖昧では無くなるところがあれば詰めて曖昧にしないで語る。
わたしは私が考えたことを語る。
いつも敢えて目指さなくてもそうしてきたつもりだし、誰の仕事もそうであるべきだと信じているが、今回は、わたしは、その他の何が成功しなくてもいいけれど「絶対そうする」。
その地点を毎晩毎晩目指して準備したら、稽古しないのに稽古のある作品並みに疲れた。
数年の間、データから作られる音や映像に向き合った。
システムとロジックが構築されて、半ば自動的に中身が生成される世界だ。
今回は、ある意味でのシステムは作るが、中身は自動生成されない。
古くからある「人間に大量にうごめいている、よくわからない中身」しかない。
そのよくわからない中身について語っていいのがアートである、ということだけを心に置いて語った。
これは、「美術とは何か?」という数年来の自分への問いに対するひとつの回答だった。
平凡だけれども、広がりのある回答だった。
そして翻って、自律システムと向き合うおもしろさを、自分の内的には確認した。