テキストと格闘し疲れて、ふと水曜だと思い出し、おもいきって休憩を取ることにした。
水曜は女性割引をしている映画館が多い。
年末に、絵画科の先生が絶賛していた「かぐや姫の物語」を見ることにした。
映画館につくと、両脇を母娘の二人組に囲まれて座るはめになった。
左手の母親はポップコーンをすごい勢いでむさぼるように食べて娘に呆れられ、
右手の母親は芸能人を「さんづけ」で呼んできゃっきゃと娘に語りかけるという、
なんだか両極端なふたりだった。
絵がよかった。
風景画を描いているときの独特のよろこびや、子供の頃に虫とりやおままごとをして遊ぶ傍にある植物のみずみずしい親しさが、スクリーンから溢れてくる。
かとおもえば、異界に接する際の描写の素朴さは寒々しい。
生と死の際に立つさびしさが、ひらひらと翻る一枚の布の裏側をみせるように、随所でハッと、一瞬現れるのだ。
物語の最後、姫は地球の記憶を失って清らかな月へと帰っていく。
それと対局に、姫を育てた老夫婦は、これまでの思い出と共に地上に遺されてしまう。
どうしたって、死んでいく娘と、それを見届けなければならない親のくるしさをみるようだった。
忘れられない記憶の塊を持て余し、
その塊にどうつきあっていくのか?という問いに答えを出せないまま、
日常を繰り返すようになって久しい。
だからか、姫が記憶を失うことに、うらやましさに似た感覚を覚えた。
けれど同時に、この俗物的な記憶の塊を、
いつかわたしも奪われる日がくるのだということを姫の顔の稜線に発見すると、
果てしなくさびしくてさびしくてうろたえてしまう。
それが死なのだとわかっている。