年末に、Nさんにおすすめされた『地図と領土』がおもしろくて、アーティスト友達に勧めたらやっぱりおもしろかったらしくて、お。語ろうぜ、呑もうぜ、と原美術館へ。
つまり、原美術館:ボレマンス→写美:高谷史郎→GP:港千尋、と移動しながらつらつらつら『地図と領土』について話していた。
ボレマンスの色彩は、わたしの好みではない要素も持っている。
でも、全部を見終わったそのとき、「意識とは何か」というこの数年の問いにひとつの回答がもたらされたように思った。
MTM、アンドロイド演劇、音の海、、、これら各々を経験する中では点でしかなかった認識が、絵画を見ることで"繋がって"理解できたようにに感じられたことが、自分にとってはなんだか象徴的だった。
古い馴染みの眼鏡を通じてはじめて、現在に張り付いていた曖昧さが過去の歴史に組み込まれたような、そんな感覚なんだ。
[MTM]や音の海では身体の欠如が、
アンドロイドではぶれない存在の仕方が、
意識を迎え入れる"虚ろな[site] "の役割を担っていた。
そして、そこに入っていくのは、それら仕組み自体が生成する意識 だけではなく、
鑑賞者の意識を引き連れざるおえない。
加えて、同じ日に見た「デジタルデータを変換する作品」(展覧会のうちの数点)としての高谷史郎さんの試みもまた、わたしにとってひとつの区切りだったよう。
データの数が多いとか、変換のルートが多いだとか、ノードが多様だとか、
そういうことから「意識」がたちあがることは無いとは言わないけれども、
それ(=意識)に接した「私」が動揺するほどの肌理を持ち得るかというと、やっぱり相当むずかしい。
コンピューターとかインターネットから生まれる意識が「心の病」を生じ、
その病を介して「自他の境界」を拮抗する振る舞いを感じさせるに至れば、話は変わってくると思う。
もちろん、可能性を信じて目を凝らすところからしか開かない未来がある。
でも、わたしの仕事ではないよね、と冒険の果てに思ってる。
いまは、人間のほうが、おもしろい。
西洋の「人間讃歌」とは違う意味において。
人間は人間の成すことを嫌悪することができる。
アンドロイドに対峙した俳優は、目の前のアンドロイドと、闇の中の私という二つの基準を見つめながら、異なる「私(役)」を表出させていく。
その複数の私を通過する手順は、病の誕生に関与している。
たぶん。
そんなことをぼんやり、としかまだ考えられないのだけれど、メモのために残しておこう。
もうすこし整理して言葉にしてみたいな。
でも、いったい、ほんとに、こんなこと考えたからってねぇ......