2013/08/19

なめ敵とスティグレール

深夜に気持ち悪くて眠れなくなるパターンが続いている。
だからというわけでもないけれど、朦朧とした意識を読書でつらつらとつなぎながら、寝たり起きたりを繰り返す。

「なめ敵」を読むにあたって、もういっこ補助するような哲学書を読みながらのほうが、なんだか私にとってバランスが良さそうだなとおもって、平行してスティグレールを読んでた。

平行読みが功を奏したのは、インターネットという意識を作り出す技術についての捉え方が、まったく異なることによる。双方ともに当然ながら、経済、資本主義、投資、という社会構造と意識の話につながっていくのも、脳がやわやわしてくれて、よかった。
一方は、インターネットを介して世界がよくなる(なめらかになる)ように、一方は、インターネット(だけではないけれど) によっておこるシンクロニシティがもたらす意識の荒廃を直視していく。
もちろん、どちらも、いい面、悪い面だけに焦点をあてているわけではない。

共におもしろかったのは、「一手を打つ」ことについて、考えている人たちの仕事だということだ。なめ敵はもちろんだけれど、スティグレールも、歴任してきたポジションでの試みが伺える。
私が哲学が苦手なのは、テクストの中に戦いも未来も回収されてしまうようなところで、 (それは、彼らの「発表の仕方」=テキストをえんえんと読み上げる慣習にも見て取れるのだけれど)どこか、桃源郷の問であり、桃源郷の回答であるように感じられるところだろう。アートでも、そういうものはいくらでもあって、私がテキストで完成しているものは作品にしなくていいとこだわってしまう理由もそこにある。式の解を読み上げてパフォーマンスとされるものを見るくらいなら、テキスト読んだ方がいい。

あたらしい技術であるインターネットは、あたらしい意識を作るのか、あるいは意識を荒廃させた挙げ句に、あたらしい意識を作るのか、ちょっとわからない。日々の実感としては、シンクロニシティが荒廃させていく意識というほうがわかりやすく近しい感覚だけれど、走り出した記憶の技術を止めることはできない以上、「一手」を打つ必要は後から後から深刻にわいてでてくるのでしょうから、「なめ敵」のような平和だがアグレッシブな戦い方は勇気がでる。
と、素人が何いうぞ、、ですが、、、
ただ、事実を眺めて現象を捉えようとするだけではなく、 あたらしい技術のあたらしい使い方を開発していくことで、世界、意識、進化の先を変えようとしていく姿勢に、心が踊るんだろう。