2013/07/27

成立しない問い

なんで、めげないの?と、何年も鬱で苦しんでいる古い友人から問われた。
死ぬ方法ばかりを考えずに目の前のことを丁寧にやってみて、という言葉が、重たい堂々巡りの中に居る人には残酷なものだろうというのも、知っている。


やりたいことがわからないという悩みを、いろんな人の口から聞いてきた気がする。
私には、その悩みに対する答えがない。
例えば散々ひとびとに「やりたいこと」の結果を酷評されたって、所詮は他人の言葉だし、私の人生に口だされる覚えは無い、程度のことだろうに、アートなんて。という側面がある。
原爆落とすのとは訳が違う。
「地獄」が人生のなかに刻印されているわけではない。
それでも、迷惑をかけている人、応援の手をいつも貸してくれる人へどんなふうに誠意を返せるのかを考える時間は、ともすれば相手からの返答に執着しかねない程度には持っている。
考えこんでしまう理由は、理想的なかっこいい答えが見えていても、それを現実化できないからだろう。
しょうがないから、ひとつひとつ、メールしたり電話したり、具体的に行動して、それでも返答がないような場合には、諦めましょうと区切っていく。

「人を大切にする」を諦めない場合もあるだろうし、同じところから生じている、他人に認めてもらおう願望を手放すことが優先される場合もある。
時に応じて選んでいく。

私には安定した健康がない。
激痛に倒れているとき、情けなくてなんで自分はこんな思いをしなくちゃいけないんだろう?お願いだからこの痛いのを消してください、と何度も何度も祈ったり呪ったりする。
でも、誰かに、なぜあなたは健康でいられるの?とは問わない。
子供のころに、学校で初めて「斜視」をからかわれて帰った日に、母親に「なんでふつうの目じゃないの?」と質問したら、母が、人はそれぞれ目に見える見えないに関わらず異なる問題を持っているのだ、というようなことを言った。
母は、生まれつき心臓が悪い。
耳も片方聞こえない。
そういう人が言った言葉だから納得できたのかもしれないけれど、その説明で、そっか。とだけ思ったのをよく覚えている。


やりたいことが途絶えない人生もあるし、どうしても見つからずに苦しむ人生もあるんだろうとおもう。
こういったら、また苦しむのかもしれないけれど、「比較してもしょうがないこと」。
健康な人生もあれば、最初から寝たきりの人生だってある。
そのことについて、誰に何を問うても、回答はない。
その質問はもともと成立しない問いなのだ、と切り替えた方がいい。


難題が降りかかるときでも、明るくポジティブに考えを進められる人もいて、そういう人は世界の財産だとおもう。
私の恨みや愚痴を電話やチャットの向こうで聞いてくれる数人の友人たちは、「ちょーぜつすばらしい財産」。
ちょーぜつ。
でも、ここのところ、甘えすぎたよな、と。

つくづく思う。
今、こうしている間にも、誰かは「死にたい」し、
今、こうしている間にも、誰かは「しあわせ」。
旅に出ているもの、おならをぷぅとやっているもの、秘密を抱えているもの、アイスクリームを嘗めているもの、責任を問われているもの、誰かの膝の上でくつろいでいるもの、、、
犬も猫も人間もそんなふう。
そんなふうな日常のなかで、あなたの「死にたい」が少しでも薄らいでいきますように。