2013/07/25

循環プール



毎年、授業で、「荒川修作+マドリン・ギンズ、ジョン・ケージ、ジェームズタレル」を例にあげて、「外側の世界がつくる私」について話すのだけれど、
このテーマには、私の個人的な生死へのオブセッションが入っていて、あたらしい作品に入る前には、必ずこの眼差しに戻ってくる。

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「私の時間」を、外側が生む行為として捉えること。
何度でも「人工」が生まれてしまう空間、関係、作用の秘密を見ること。
「作り替えられた秩序」を体得し続けること。

これらが、主に私が実行しようとすることの抽象的な説明なのだけれど(具体的な方法は毎回異なる)、こうして書き出してみると「パフォーマンス」にふさわしい言葉に見える。
なのに、実際には「パフォーマンス」で実行することが一番にむずかしかった。

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「外側の世界がつくる私」には生命の循環の仕組みが働いている。
なぜ、命は循環するんだろう?
せつない。どんな説明の前にも、納得できる実感がない。

おおきなほうの命の時間を、生きることができるなら生きたい。
漫然と死を思いながらではなく、心を短い記憶に縛られながらではなく、徹底的に自由な命としての「長い段階」を導きだしたい、この謎の循環プールのなかで。

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7年前に、予期できないインタビューをショウにするところから、私のパフォーマンス制作は道を開いていった。(実際にはもう少し古い作品でも、ダンス、朗読、落語的なアプローチを試している。)
私にとって重要だったのは、「予期できなさ(インタビュー) と コントロール(ショウ)」 という相反する運動を同時に扱う時に、命が走る時間の感触 を掴んだということだった。
やがて、コントロールがあるからこそ「予期できなさ」を抱え込もうとする「俳優やダンサーという存在の仕方」に興味がわいてきた。


2011年からは、「流動的な環境が形づくられるプロセス」を、人工生命と人間という、質の異なる自律性の相互作用がもたらす「進化」から理解しようとしている。
ここでの環境とは、生物や物質に流れている意識、つまり心とも言える。
私は、この観点をひとりで培ってきたわけではなくて、人との出会いを経て、こんな言葉を選ぶようになったのだけれど、
でも、なんにせよ、
私のおおもとにあるのは「命が走る時間」を生起させるという強迫観念だけだろう、とおもってる。

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「音の海」は、シンプルな仕組みから成る人工生命だ。
パフォーマンスでは、音の海の挙動を見せるというよりは、中に入った人間の挙動にどう影響を与えるのか?を中心に、様々に自律性を抑えたり解放したりと調整を繰り返した。
そのデータを得たことで、次では、自律性の解放に幅が出せるようになったとおもう。
スタート時のチームがもっていた構想「建築」をつくるように「音の海」をつくる、を次回やろうとしている。