2014/09/02

「非社会的なエロスで無ければ耐えられない」を見つめるということ

0.
友人の展覧会に行って、そのあと友人の友人達も交えて呑んで帰って、明け方から咳が酷くて、いちにち疲労で起き上がれない日があった。
季節の変わり目だなぁ。
寒くなるに従って、午前中は咳の疲労で動けなくなる日が増える。
それでも、すこしづつ、すこしづつ整え直していて、一年前よりずっとマシだし、三年前よりかなりマシになりつつある。
もう何ヶ月も脳貧血を出していないのだから、それだけでも本当にすばらしい。


3.3
わたしが、ひとりで外を歩いても、冷や汗もかかず動悸もしなくなったのは、ここ10年のことだ。
女性専用車両で泣き叫んだ人に対して、「他では平気に生活しているんじゃないの?男性差別だ。」と言う意見があるけれど、そういう問題じゃないんじゃないの、と思ったりする。
ある特定の場所がある特定の記憶を引き起こし、生きにくくさせることがある。
女性専用車両というのは、痴漢を未然に防ぐという意味もあれば、過去の被害から身を守るという意味もあるだろう、今回の女性のことは知らないけれども。

TEDで社会学者が語ったという「ポルノが与える社会的な死」についての記事がある。
TEDらしく、特にあたらしいことが語られているわけでもなく、本当に不味いものは落として語っている「きれいな話」の範疇なのだけれども、それでもこの程度のことさえも、世の中でははじめて知ったことのように語られなければならないんだものね。
彼の言うように、ポルノのカテゴリーをネット上で調べてみたら、性のファンタジーがどうしてこうも支配すること/されることに依っているのか、混乱するほどだ。
わたしは、この世界からポルノが強制的に無くなればいいとは思わないし、出来るとは思わないし、ポルノは原子爆弾と違って無くなるとそれはそれで寂しいものかもしれない。でも、理想を語る時には、いつでも「一番の理想」を声にした方がいいと思っていて、それで言うと、道具や動物みたいな典型的かつ暴力的なポルノより、現実の人間的な知恵も体温もあるエロスのほうがいいですよね。
愛があると錯覚できるならなおさら。断然。

でも、本当の問題は、「現実の人間的な知恵のあるエロス」より「非社会的なエロスで無ければ耐えられない」という個の人生に、社会はどうつきあうのか?っていうことです。
TEDの人の理想は、全部を引き受けた理想じゃないとおもうんだ。
世間的には許されない欲求があったとして、それを内々で発散させて抑えこむ力が「疑似経験」や「想像力」なのだ、ということは実際にあるとおもう。
でも、同時に「定型化」された性の欲求を、幾度も表現として刷り込まれることによって、それが「自分の欲求である」、或は「それを社会も暗黙的に許可している」という感覚を芽生えさせてしまうことも事実だと思っている。

表現の効果には、ふたつ以上ある。常に。
そして、だからこそ、分けて対処することは少しはできる。



幼児性愛や猟奇的な事件を描いた漫画やアニメを「表現の自由」だと安易に擁護するのは、人間の自己コントロール能力を信頼しすぎだし、それら周辺的な性の欲求と社会の仕組みをアートだと言って提示するのも、最早、効力のあることとは言えない。

毎日、きついニュースが多すぎるのは、まったく「表現の自由」のもとに流通している表現との因果関係がないとは、到底思えない。
痴漢をすることや、子どもを性の対象にすること、弱いものを拉致して監禁すること、自分好みに支配すること、そして殺人すること、そういった物語が反乱すれば、本来はそれらの欲求を顕在化させなくてもいい人までも「簡単に集中的に脳を染める」という、この現実ならば、少しは社会として向き合う余地もあるような気がする。

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生来的に手放せない性癖と、不用意に育ってしまう欲求とは、社会としてはきちんと分けて対処を考えてほしい。
それが、理想。
こんなに簡単に侮辱的な表現や、子どもを性的な対象にしたポルノが手に入ってはいけない。どうしても必要な人が、いくつかのハードルを超えてやっと手に入れるぐらいにしてほしい。

暴力の対象として選ばれたことが無ければ、どうしてそれが問題なのか、辛いのか、人心を殺すのか、人間にはわからないんだなぁと実感することは日常の中で少なくなくて、口を閉ざしながら途方に暮れる。

公衆の面前で泣いて声をあげなければならないほどに、ネットに「善人の裏の顔」を書き込まなければならないほどに死んだ心を抱えて生きていくことを、多くの人は経験しなくてもいいはずだもの。