2014/03/28

基準のわからぬこと。

先日、アイザック・イマニュエル @STに行くも、始まってすぐにひどい貧血が兆しはじめ、休憩中に薬をのんだんだけれど効かず、途中で退出するはめになった。
出たはいいけれども、外で横になれるわけでもなくて、どうにか電車の振動には耐えられたので都心まで戻って来れた。
こんなことはいくらなんでも初めてで、見れなかったことも含めてショックだった。
観劇は、湿度と体温の調整がむずかしい上に、じっと座っていないといけないのでプレッシャーが高い。
ちょっと良くなったからといって、まだ体調を過信してはいけないのだった。
ゆっくり、しっかり整えていかねばなりません。

今日は体調もよく、都内の展覧会をまわった。
工藤哲巳、泥とジェリー、filmachine、さわひらき。
最後のオペラシティの後で知人に遭遇して、おもわず一気に感想をしゃべってしまった。
『泥とジェリー』はオマケで見たのにとてもよかった、のは、私のなかに豊かな物差しがある作品群だったからかもしれない。
そして、10年前には「古かった」 だろう工藤哲巳の科学や思想を「表現する」作品が、情報をそのまま経験することができるメディアアートの時代を経て立ち返ることで、「表現する」の豊かさを見せてくれたこと、
「記憶の主観的な語り」をさわひらきさんで見て、「時間を経験すること」そのものがfilmachineにはあるので、このふたつを同日に見れたのは個人的に良かったこと、
そんなことを、短い時間に話した。

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物差しがあるというのは、ジャッジに迷いが無いということかな。
人にはそれぞれ、「一般的な基準」がよく分からない分野 があるのだと最近、よく考える。
苦手なことには靄がかかってしまって、嘘をついているわけでもないのに判断が一瞬遅れることで誤解を生んだりする。
わたしにもある。
耳を傾けて時間をかけて対応すべきことなのか、即座に引き上げるべきことなのか、イマイチわからない問題の出方があるし、
表現の質感やコンセプトや構造のことを「作り手」の視点として深く深く見て取れるのは平面、ハプニング、イベントの仕事でならすんなり わかる けれど、音や演劇になると、ひとりの「見る側」としての物差ししか持てないだろうし、
言葉が生むズレはいつだって深刻に襲いかかる。

反対に、深くまでジャッジを幾通りにも効かせられる分野もある。
お菓子は本を見てもつくれないけれど、料理は素材から「わかる」。
他人の抽象的な思考と世界を言葉で結びつけ直す、そのあらゆる段階での景色がひろびろと見えることはしばしばある。

物差しのうまく働かないことのほうが外で目立てば、生きにくさに泣かされることも、嫌というほど知っている。
けれど、13ヶ月もすれば40歳なのだ。
互いに基準のわからぬ物差しを使っておもしろく笑っていられる場が、「いい加減」 と「真剣」のよき案配のなかに生まれてくるだろうよ、そろそろ。

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もうすぐ制作のあれこれが加速し、人の展示を見に行く余裕はなくなる。
ほんとうに長いこと、演劇やライブに行くのがセイイッパイで、美術展まで足が伸ばせていなかった。
10年単位でのさまざまな経験が整理され、冷静さがあり、手と頭と言葉で作ることがただひたすら毎日の時間に戻ったこの春を、うれしく感じている。

3月は、復帰へむけて日記をこまめに記してみたけれど、また元のペースに戻る予定です。