2015/02/02

移民・移行・移住

いま、私は「移民する本」という作品を連続で作っている。
内容も方法も、Vol.1と2ではまったく異なるのだけれど、「移民」というメタファーを頼りにして、拠り所の曖昧な存在の視点を対象としていることは一貫している。
もともと「移民」という語は欧米ではネガティブなイメージが強いので使わないほうがいいと忠告を受けていた。
その時にも、自分が「移民」という言葉の持つ事情をどこまで見つめることができるのかを考えた。
でも、これから無知な私の目の前に開示されるだろう複雑な事情に、ひとつづ、にじり寄る程度にしかイメージできなかった。
つまり、とてもじゃないけれど一気に包括的に、我が問題として引き受けるようなことは不可能だろうと思った。
ただ、当然だけれども、「ひとつひとつににじり寄る」というのは「多くの複雑な事情から目を背ける」と同じではない。
ひとつひとつ、どうにか向き合う。
どんな時にも、エキセントリックに短い興味を寄せて「社会問題」を扱うような、そんなアートなんて私はいらぬよ、と自分の手に対しては言い聞かせてきたし、どちらかというと、このテーマはごくごく個人的な経験から出発している。
ただ、多くの個人的な経験がそうであるように、わたしたちは小さな経験を通して、逃れがたい大きな世界の事情を見ることになる。
だからこそ、一回では成し遂げられない。

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この制作の最中にも、どんどんと移民という言葉をそれこそ楽観的にも、気楽にも日本にいてさえ使えなくなるような、(まるで「ヒットラー」とドイツにいる間は簡単には発せられないような雰囲気に似た)事態が世界で起こり続けている。
どのような方向から見ても、考えても、途方にくれてしまう状況に覆われはじめている。
911の後の雰囲気を思い出している。
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このプロジェクトがオープンする以前に、私は移民研究者やアーティスト、批評家と、それぞれに対話の機会を設けてもらった。
そういった経過を経て、「移民」よりも「移住、移行」という意味あいの強い"migrating" を英訳として使うことにしたのだが、日に日にもっと腰を据えて、このmigratingという言葉にさえ向き合わないといけないことを実感している。
同時に、それでも歯をくいしばるように「複雑な事情」に目を見張るばかりではなく、本質的な「移民」という現象がみせてくれる多様な側面にこそ、 心を寄せるようにして作りたいと思う。

なんだろ、ちょっと中途半端に四角四面な、ダサいほうの道徳的な文章になってしまったけれども、やっぱりこんなテキストを書くようなことも、作るなかでは起こるんだな。
そうなのかな、どうだろうか。