2014/08/06

あたらしいの。

0.
砂肝のオイルコンフィとインゲンのおかか和えと、山椒むすびという常備菜セットを作った。暑くて、おむすびを握ってると、状況すべてにムカっとくるほど辛いのだけれど冷凍するならおむすびだな、と最近は決定している。
えー、今更だけれども。
食べにくいものは嫌いなのかも.....。
はるさめサラダを先日つくってみたら、どことなく食べにくい。
麺のくせにすすれないし、でも長いし。
その鬱陶しさにとってかわるだけの、うれしいところがない。
よって、おそらくもう作らない。

税務署に行くはずが、あまりにも暑いので引きこもって制作していた。
役所は、夏は、夕方から明け方にかけて開けばいいのに。
先日、そうやって完成したのを持ってEとの打ち合わせにいくと、計らずもフランスや韓国のダンサーたちとのご飯となった。
その短い出会いのなかにでさえ、動きや時間についての哲学を話すことができるし、死についての告白があるし、
わたしは、この袖触れ合うだけの接触はいつでもすきだ。

5.
そうやって、Eと某プロジェクトのすりあわせ。
英語でのやりとりが、なんとなく無駄をそいでくれる気がする。
「移民する本」もこれからだし、去年の秋から準備を重ねた二件がこうして躍動しはじめていて、それらを支えるための基盤造りも改めて動き始めた。

「移民する本」をやって、自分はアートに関しては徹底的に大丈夫なんだなぁ、とおもってる。
いろんな作品を作ってきて、ようやく自分は「どんなアプローチを取ることもできる」ことがわかったからだけれど、ここでの「できる」というのは、なにをやったって、アプローチの先に見たいものは病的なまでにはっきりとしている、という呆れでしかないにせよ。
どこを通ったって、どんなメディアを使ったって、見たいものが同じで、でも飽きないのは「見たいもののほう」が進化してるからだ。

ほんの一年前までは、作品ひとつひとつが持っている段階は、それぞれ異なるフェーズだった。
これまで常に悩ましかったのは、「深める」という感触が掴めなかったことだ。
ひとつやっては切断し、あたらしいひとつをやる、そんな感じだった。
作品を作るたびに、場所を変えて潜ることはできるけれど、それぞれは個別のそれぞれである、のように感じていた。
これは制作の現実的な問題に通じていて、音や映像を主体にして世界を見聞きしようとすれば、圧倒的に感覚優位のアプローチが出来ない者が作る意味はないとおもう。
けれど、コンセプチュアルな思考にとっての「深める」は、必ずしも感覚の脅威を発見することではないというか、結果的にはそれが無いと厳しいんだけれども、
感覚が無い場合にも世界は存在して作り替えられている、
ということの方により大きな責任を引き受けている、とおもう。
そこのところが、ずっと難しかった。
コラージュや絵画ならば、自分自身と拮抗して深めていくことができるけれど、そうではない行為をどうやって「深める」のか、、、。
それが、15年やってきてはじめて、前の10年とか前の5年とか前の3年に発見した段階を使って次に進む、というのを経験し始めているのかも、と、ふと夕方に思った。