2014/08/12

初期条件の作る緊張

0.
とにかく忙しく、作りおきの料理で日々を過ごした。
全部なくなった。
昨夜、どうにも手がまわらずにスーパーで買った寿司を食べたら、明け方に喘息。
数日続けて素麺を食べて発疹を出したばかりなので、気をつけねばのーとは思っていたのだけれど。
ある意味、見事なまでの反応っぷりに感心する。


6.
友人に会うと、なんでそんなにアートに拘りがあるのか?と聞いてくる。
生まれて来る時に持っていた初期条件のようなものでしかないんだろうけれど、確かに、作らないで生きるというのがよくわからないし、作ることのなかには怒りも悲しみも関係のない状況がある。
アートを通して考えることを、気がつくとやってる。
30年やめていても戻れるのが「世間的なアート」であり、いいところだとも思う。
でも、30年考えなかったことは30年後には存在しない。
30年の間の日常ではどんなことがあろうとも、アートを通して変わらずに考え続けたこと、そういうものがわたしにとってはアートなんだろうな、とおもう。
技術とは不思議なもので、15歳の時に描いたようなデッサンを、わたしにはもう描くことはできないだろう。描かないのだから技術は落ちる。
でも、どんな時にもやめなかったことを使ってならば、そのやめなかったことが、いつしかデッサンの役割も担い、最終的には元来のデッサンに別の技術を持ち込む。
そういうところは、生きていればこその実感であり、かけがえのないおもしろさだ。

4.2
ところで、もしも、昔の少女漫画のように「記憶喪失」になったらどうだろう?
いま、わたしが記憶喪失になったら、15年考えてきたことや、その考えてきたことに引っ付いたり、まとわりついたりしている訳の分からない妙な思考と、それらが支えている「私」はどうなってしまうのだろう?
おそらく、ほんとうに忘れちゃうだけなんだろうな。
どんなに強い拘りをもたらす初期条件であっても、消える。
犬の病的な拘りは、緊張状態の現れで、リラックスすることを覚えれば犬は変わる。(とカリスマが言ってた。)

漫画みたいにアートを通して記憶が戻るなんてことは無いような気がする。
脳科学ではどうなのかという問題ではなくて、
揺るんだ記憶は緩んだ記憶のままだろう。
いい悪いじゃなく、緩んだ時から別の時間が流れ始め、かつて拘りと愛を傾けた対象は別の様相を呈して見えてくる。

それに、死にはストーリーがないのだから。
ただ、消える。

だからこそ、おそらく人間は作る。
作る先から「保証」の消えて行く生を積み上げて緊張状態を保とうとする。
そのエネルギーの消費をわたしは制作で行うけれど、
子どもで、他人で、主張で、評価で、
使いきろうとする人もいる。

なにもいらないなぁ、と、やっぱり今日もおもう。
意地悪やいたずらに満ちたものに見つからず、静かにか死ねたら、それでいいなぁという想いの夏が一日一日重なっている。
いつか、どのような濁も怖がらない自分がもう一度現れることがあるならば、それは強くて頼もしいだろうけれど、その時には一体何を失っているのだろう?