2014/08/01

1の続きと、「道徳や倫理は自分と他者を合理的に守る」について。

0.
今日は、朝も夜も鯵南蛮。
母が送ってきた自家製らっきょうの甘酢が残っていたので、それに漬け込んだ。
甘くて冷たくておいしかった。
おいしかったけど、昨夜、三枚におろして骨を取り除いて作った鯵南蛮がもう無くなった。
はるさめサラダも無くなった。
おとといの常備菜「ゴーヤチャンプルー」も無くなった。
むなし。

1.1
調理をしていると祖母と祖母の家を思い出す、の続きだけれども。
祖母は広島の市街地に住んでいた。
百メーター道路(平和大通り)や本通のすぐ近くの三川町に、小さな家があった。
一階の道路に面した土間は、私が小さいときは花屋に貸し出していて、おばあちゃんちに行くときは、花屋の中を通って家に入っていった記憶がある。
その奥にリビングらしきものと風呂と台所とトイレがあり、二階に上がると二間の和室と納戸のようなものがあった。
昔の造りなので、二階には二部屋しかないにも関わらず、つやつやした柱の大きな床の間っぽいスペースがあり、欄間があっただろうと思うし、膝丈くらいの窓からはすぐ下の路面が見下ろせる。
台所は、東京のわたしのアパートよりはマシだろうけれども、かなり狭かった。
でも、そこから見事な料理がいくつもいくつも出てくる。
晴れがましい料理も思い浮かぶけれど、一番記憶にあるのは益子焼きのココットで焼き上げる卵焼きとか、板酒粕に砂糖をいっぱいまぶしてトースターで焼くやつ。
これらは、ひとりで泊まりにいくと朝食に出てきた。
日曜の朝、和室に並べた布団の中から、おばあちゃんと一緒に「兼高かおるの世界の旅」を見る。窓からは日差しが差し込んでいて、見上げる鴨居だか欄間だか長押しだかには会ったことの無いおじいさんの遺影と能面があり、少し頭を傾けると木の形をした台の上の黒電話が見える。
おばあちゃんは明治の人なので「パンヅ」を履いていない。
朝起きると、兄と一緒におばあちゃんの寝間着を覗いては、「パンツ履いてないー!」と笑い転げる。
たっぷり遅くまでゴロゴロしたら、一階に起きて朝食になる。
自分の家での大皿料理と違って明治の人の食事は、どの料理も一人分が銘々によそわれている。
通りを出ると、昼過ぎには「よそ行き」の顔になる町が、まだ朝らしい空気をまとっている。百メーター道路の角に、ソフトクリームを売っている商店があって、いそいそと買いに行く。

わたしは、この朝の光景を、幾度も幾度も思い出す。
今でも歩いていて花屋の匂いに、あの暗い土間の入り口の光ほぐれる具合に包まれる。

3.
そうこうしていても、女子高生が友達を殺したのだという。
少し前に、ある不正への処罰に関して「決定は決定主の自由なのだ」という茂木さんの意見を目にしたときに、ひとりの学生が「どのように大学時代を過ごそうと(好きなことを優先させることこそは)自分の自由ではないか?大学とはそういうところではないか?」と真剣に問うのを聞いたときに覚えた「自由のイメージ」を思い出した。
それは、どこか一昔前の「アメリカは自由だ」という言葉に込められた日本の側からの「自由のイメージの時代」を彷彿とさせた。
わたしが子どものころに想像するでもなく想像した、バブルなというか、外国はアメリカとフランスだけ、みたいな時代の自由だ。
今の五十代くらいの人々の青春時代に抱いた自由のイメージは、もしかしたらその自由かもしれないなとフト思ったのだけれど、あれから時を経て、わたしたちは「例えたってアメリカの自由もそんなんじゃない」ことをいつの間にか知っているはずだ。

と、この話題と不正と殺人事件が繋がっているという話ではないのだけれど、すこし繋がっているような気がしていて、それは「道徳や倫理は自分と他者を合理的に守る」ために発達したんだろうな、という感覚に通じている。
道徳や倫理と自由はもちろん繋がっている。
必須条件というような繋がり方ではないにしたって。

「道徳や倫理を守るのは格好悪い」という感覚を十代の頃に抱いた経験がある人は少なくないのではないかとおもう。
なにしろ、ここには制服だの校則だの、いろいろありすぎる。
でも、道徳はかっこいい悪いでいうと、「強く他者と自分の関係を守る手段」として、
一度は身につけておくと得策というようなカッコヨク使うことができる仕組みなのかもしれないが、
もしも、親がそのことを感覚的に理解しておらずに、自己を優先させる自由しか知らなかったならば、抑えがたい欲求の方に世界が倒れてしまうためのハードルは下がっているのかもしれない、「自由の証」として。