2020/04/19

居心地のよい部屋



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4月19日(日曜日)

 外に出ると、人々が散歩を楽しんでいる。
 子供が走りまわり、大人たちがジョギングをし、カップルが手をつないで歩いてくるのとすれちがう、その数どれも数件。前は一件だって数えたりしなかった。小さなカフェには客が入っていて、界隈で有名な洋菓子屋は入店をを待つひとで路上に行列ができている。
 空は惚れ惚れするようないい天気で、わたしの住む町はどう考えたって、わたしがみてきた中で一番のしあわせそうな空気を醸し出している。
 目にみえないウィルスは、住宅地になんかやってこない気がする。
 わたしはもう一ヶ月以上、電車にのっていない。
 収録もなくなり、家でできる仕事をするのみなので、この町のなかにずっといる。
 いくつもの店には、当然だが、張り紙があって閉じている。
 わたしは、私達がしあわせなのかどうかわからない。ふしあわせなのかも。
 私達のことはよくわからないが、わたしにとっては、「電車に乗らない」ことと「それに、いつもお世話になっている治療が受けられない」以外はあまり気分としてつらいところが、まだない。
 去年の秋から仕事づくめだったから、このゆるゆるとした生活のどこが悪いのかまだわからない、けれど、ここから先の収入が減っていく不安はあるし、それに、なによりも、わたしの周りには「アーティストや俳優や音楽家や映画関係者」が多い。つまり、人々は語るにせよ黙するにせよ、窮地に立たさせているし、その窮地が終わる気配はない。なによりも、窮地というのは経済的な苦痛のようだけれど、楽しみの無い時間を生きるといういたたまれなさである。
 世の中の仕組みは大きくも小さくも変わるのだろう。
 それそれの国民が放置してきた、それぞれの社会の都合の悪いことが爆発的に露呈している。それぞれの国民のなかには完全には加われない、その同じ社会で暮らす国籍の異なる(あるいは不透明な)人は、ますます宙に浮いているし、そんなことを言ったら、大多数の正規の国民が努力をし尽くしたと疲れ果てているにもかかわらず、これまで変化を起こせなかった国も少なく無いだろう。そのなかで、変わっていく。灰になるように。 
 だが、わたしは映画は映画館でしかみたくないわ、とここのところ毎日つくづく思うみたいに、必死につないでゆく仕組みもあるだろう、願っている。

 部屋を出て散歩をしていると、ひとつのイメージがついてまわる。
 保坂和志さんの『読書実録』にでてくるSFの話で、人間からみると不幸な結末として本来の形を失ってしまったモノ言えぬ生命体が、生き生きと互いに交歓するシーンだ。人間たちにはその歓びは見えず感じられず、あのアメーバのようになってしまうことがどういうことなのかがわからずに怯えている。
 閉じたわたしの部屋は、空っぽではなく、なにかかつてのインスピレーションを失っているけれど、同時にとてつもなく居心地がよい。その部屋を残して近所に散歩にでるとき、わたしはなぜかしら、あのSFのなかでアメーバみたいになった生命体としての会話を感じている。
 
 この散歩は、まるで原爆の光をうつくしいと感じた人のような話なのだろうか、違うのだろうか、比べたら不謹慎なのだろうか、こんなふうな感じの微細さすべてが今から灰になるのだろうか、部屋に戻って自画像を描いたのだった。